2020/06/7
崖の上の家
第二章
田端の家:父の気配
渡辺町での幼年時代(日中戦争か平洋戦争開始まで)
私の幼年時代の最初の記憶は「田端の家」と私たちが呼んでいた、田端の駅から坂を上がった渡辺町にあった家での思い出である。私が生まれたのは1937年だから、幼年時代は日中戦争とともに始まったのであり、1942年の暮れに千葉県安房郡勝山町へ疎開して、そこで小学校に上がるまでの、幼年期を渡辺町の家で過ごしたのである。
その時期は父が東京市勤務をやめて、カーテンレールなどのビルや住宅家建設の部品を製造する工業会社を始めた時期であり、それが思いもかけず戦争のための軍需産業へと駆り出されることになったのである。父がそのような転換をしたのには、東北大学を卒業したばかりの母の弟が結婚した人の父親が、父を会社創業に熱心に誘ったからだと聞いている。叔父の妻の松子叔母の家族は王子に住んでいて、私は母とともにそこを訪れた時の写真を持っている。母は実に若くて、矢絣の着物を着て、日傘をさしている。私は3歳くらいだと思うが母の袂をしっかりと握っている。二人は王子、あるいは飛鳥山あたりの広い野原の中に立っていて、私たちの姿は二人だけポツンと遠景に写っている写真だった。その当時は王子付近はまだ新興住宅が立ち込む住宅街化していず、写真には、家は遠景にぼやけていて、草原がずっとっと奥の方まで広がっている。もちろん白黒で、写真自体も小さい。私の記憶は実際に見た風景なのか、あるいはこの写真の風景が脳裏に記憶されたものなのかはよくわからないが、それが母の記憶の最も古いものであることは確かなように思う。家は空襲で丸焼けになったのだから、私の生まれた時からの写真などはほとんど残っていなかった。
田端の家は私が生まれた家ではなかったが、この家が私が生まれた家と同じ心の内密な場所だった。過去を思う時、この家が心に浮かび、一人でいる休息の夢想の場だった。そこでは私は幼く、草原に囲まれた家にいるのだった。
もう一枚長く手元にあって、記憶に深く残っているのが、父の弟で早稲田大学の英文学部に通っていた結伯父と銀座通りを歩いている写真の中の風景である。伯父はコートに中折れ帽を被り、私は銀座の石畳の道を、飛び石をしながら伯父の脇を歩いている。結伯父は大学を卒業後NHKに勤めたので、服装から考えても、その写真の時はすでに学生ではなかったのかもしれない。伯父は軽い肺浸潤があって、兵役を乙種不合格になってしまったと、大変悔しがったそうである。だんだんと学徒出陣も迫ってくる時代だった。戦線に出て行く友人たちを伯父は駅へ見送りに行き、その時にはいつも私を連れて行った。私はその友人の一人が水兵さんの姿でいたことを、これは写真ではなく、はっきりと覚えている。その時の叔父はいつも学生服に角帽をかぶっていた。角帽をかぶった叔父の痩せた姿は私の中で止まったままでいる。
渡辺町での幼年時代は、この伯父と過ごした時間の記憶が最も鮮明なのである。私は「日暮らし幼稚園」という、家から坂を下った「日暮し町」にある幼稚園へ行っていたが、そこでの記憶はほとんどない。ただ、姉に手を取られて帰ってくる時に、男の子たちから「のりこの体操、めちゃくちゃ体操」と囃し立てられたことを覚えているので、一番幼いクラスの私は他の子達の体操についていけないほどコーディネーションが悪かったのだろう。結伯父は二階の欄干に座って私の帰りを必ず待っていてくれたのである。当時英文学を勉強していた伯父は私に英語の本を読んで聞かせてくれ、英語の単語やことわざを教えてくれた。何度も繰り返し言わされたので、as cool as cucumberという言い方を私はその頃からずっと覚えていたのである。「キュウリのように涼しい」とは確かに、キュウリは触るとヒヤッとするが、「涼しいのは触った手だけではない、心が涼しくなるのだ」、と必ず説明するのだった。伯父の読んでくれた物語はRobert Lewis Stevensonの『宝島』だった。英語はちんぷんかんぷんであっただろうが、物語はしっかり覚えていた。幼い子供の想像力を掻き立てる物語だったのである。
伯父は戦争が激しくなるばかりで、友人は皆兵隊に取られ、学徒動員も進んでいるのに、自分だけ身の危険のない毎日を送っていることに、後ろめたい気持ちを持っていたのだと思う。大学へ行くことも次第に少なくなり、家で過ごすことが多くなったという。国難迫る非常事態下の東京で、若い彼はおそらく鬱々としていたのではないだろうか。何もわからない幼い私の相手をして過ごすのが、気が楽だったのかもしれない。私にとっては若い伯父の話は、別世界の不思議と刺激に満ちていて、伯父が大好きでいつもついて回っていたという。その別世界が私の日常であった。それは父や母が留守がちだったこともあって、私は叔父の見えない心の世界の住人であることが、現実感覚の希薄な幼い私の日常を形取っていたのだ。
この結伯父は父の父母、水田新太郎ともとの七番目の子供、水田家の五男にあたり、父の長姉が館山市の九重水岡地域の地主の家に嫁いでいたのだが、子供がいないことから、戦後半沢家の養子となって行った。NHKをやめて千葉の実家に帰り、農地改革でほとんど田畑を失った元地主の夫婦養子になってしまってからは、敗戦後の大きく発展していく日本で、生涯二度と東京に出てくることはなく九重で英語教師をして暮らした。
父の次兄の二輔伯父は中国上海の同文書院に学び、天津で海運会社を運営していた。父よりもさらに背が高く、体のがっしりとしたこの伯父は、幼い時から大変に威張っていたそうで、父も一目置いていたらしい。植民地時代の天津で、世界へ向いて開かれた良好な港で、日本をはじめ世界の国々へ物資を運ぶ運輸会社を経営していたのだから、大変羽振りも良かったのである。天津では大きな家に多くの使用人を雇って贅沢な暮らしをしていたと聞いている。母は陰ではいつも「海賊おじさん」と呼んでいた。この伯父一家はのちに敗戦とともに風呂敷包みを背負って引き揚げてくることになり、しばらく館山の家で父母と一緒に住むことになった。
伯父一家が、四人の子供たちを連れての里帰りで日本に帰って来るときは、必ず田端の私たちの家に泊まったが、チョコレートをはじめお菓子を山ほどお土産に持ってきてくれたことが忘れられない思い出である。3歳年上の姉はおお菓子の味を知っていたが、日中戦争勃発の年生まれの私はほとんど甘いものを食べたことがなかったのである。そのお菓子を近所の子供達と分け合って食べるのは、どこか、宝島から宝を持ち帰って来て、皆に分け与えているような、贅沢で、得意げな気持ちがした。
渡辺町は狭いが閑静な高台の住宅地で、石井柏亭画伯がすぐ近所に「美しいお姉さん」の娘さんたちと住んでいられた。私たちの家の斜め前は高崎さんという陸軍か海軍大将の家で、立派な軍服を着て、黒塗りの車で出勤する「お父様」の姿を見たことを覚えている。私たちの父は家にいるときはいつも浴衣と丹前姿で、仕事の現場も、また改まった服を着て仕事に出かける姿も見たことがなかったように思う。
父もまた大変な弱視だったので兵役を免れていた。結伯父と同じ丙種不合格だったのである。敗戦時父は39歳であったが、同い年の男性たちも、戦場に駆り出されるほどに戦状は厳しくなっていたのである。父は京都大学時代に河上肇先生の下で、反戦運動をしていたので、この時期は公的にも、社会的にも発言や活動をすることは全くなかった。若い父もまた、色々と考えることの多かった時期だったのだと思う。
高崎家には姉と同い年と私と同い年の二人の小さな女の子がいて、私の一番の遊び相手だった。大変利発なお姉さんの恵子ちゃんとおっとりとした妹の邦子ちゃんで、毎日のようにお互いの家の前で「のりこちゃん遊びましょ」「邦子ちゃん遊びましょ」と呼び声をかけては遊んでいたものだった。あまりしつこく呼び合うので、お母様やお手伝いさんに、「あとで」と家の中からそっけなくあしらわれたことも、お互いにあったほどである。このふた組の姉妹同士はなぜか家の前の石畳で遊ぶことが多かったらしい。家を隔てる道路は、行き止まりのようなもので、その先は細い、急な石の階段が、田端駅の方へと降りていく。道と玄関先は、格好な遊び場だったのだろう。家の中絵おはじきをしたり、互いの部屋を散らかして遊んだ記憶もあるが、石畳で遊ぶ幼児たちの風景は、私の幼年時代の原風景となっている。
道路を隔てた家の前は土塀の続く大きな屋敷で、確か商人の家だったということだった。そこの庭に遊び友達の男の子と忍び込んだことがあった。どのように入ったのかはよく覚えていないのだが、お年寄りの女性が芝生の広い庭で、くつろいでいた。西欧風のテーブルにはレースがかけられていて、婦人というにふさわしいその人は茶を飲んでいた。私たちにビスケットをくれて、叱ることもなく優しかった。冒険に満ちた悪戯のつもりが、急に悪いことをしたような気になって、ビスケットを食べたことを覚えている。その道の角には岩崎家の親戚が住んでいるということで、門の前に広い車寄せがあった。そこではいつも石蹴りなどをして遊び、チョコレートを分けたのもそこだった。
家の裏の貸家には医者が住んでいた。病気がちの姉のために、その先生はちょくちょく家に来てくれて、私たちも仲良しになった。近所に住む中年の女性のことを、私がおめかけさんのおばさん、と言って先生をはじめ皆が笑ったのを覚えている。その人はめがねをかけていたのである。その女性は青年の息子さんが一人いたが、作家だということだった。ずっと後になって、石川柏亭さんの娘さんが編集した冊子で、確か作品を読んだと記憶しているが、どのような話だったかは覚えていない。
しかしなんといっても私にとってのこの渡辺町時代の一大事件は、母の留守に私が針を踏んで手術を受けなければならなかったことであった。姉とともに留守番をしていた私は、お手伝いさんがお裁縫をしている部屋に入り、その膝に乗ろうとして、膝の周りに広げられていた着物の仕付け針を踏んでしまったのだった。長い太い針が足の裏に入っていくつかに折れてしまい、取り出すことができなかったという。母が帰ってきた時には、私は巣鴨のとげぬき地蔵のお札を口いっぱいに詰め込まれて泣いていたそうである。それからが大騒ぎとなり、東大病院での長い手術でも針の先の部分が見つからないというので、母が院長に掛け合って執刀を依頼したという話を聞いたものだった。針は体の中で動くので、放っておくのは危険なのだそうである。全身麻酔から起きて母と伯父の顔を見た時のことも記憶にある。目覚めて、随分吐いてしまったそうである。
私は手術に関しては何も覚えていないが、退院後にガーゼの取り替えに医者に連れて行かれるのが大変嫌だった。毎回伯父が母に付き添って私を抱いて病院へいってくれたが、待合室に入ると必ず私が泣き出すので、困ったそうである。注意をそらそうとあれこれ話をしてくれていても、その場になると泣き出してダメだったと伯父は言っていた。おそらく痛い経験だったのだろう。赤いトサカの鶏を見たので気を引こうとしたところ、「赤チンは嫌い」と言ったとかで、伯父はその話を私が大きくなってもよくしていた。この子は画家になる、色彩感覚が鋭いから、と伯父はいつも私の味方だった。
この事件は家族にとってはかなりのショックだったらしく、裁縫のねえやさんは、彼女のせいではないのに泣きじゃくってばかりいたそうで、その後やめて田舎へ帰ってしまったという。静やという母がいつも褒めていた人だった。その頃田舎へ帰った女性たちの働き場所はおいそれとなかったに違いない。母も姉もどこか責任を感じていたらしく、父と伯父はとげぬき地蔵のお札を飲まされた私の姿を想像しては苦笑していたという。私は二番目の子で、病弱な姉と違い病気をしない子供だったこともあり、また男の子を期待されていたのに残念がられていたこともあって、私はあまり特別な注意を受けない、手のかからない、男の子のように放っておいてもいい子だったのが、それ以来は、皆に大切にされて、中でも母は術後の湯治に湯河原温泉の旅館に私を連れていき、長い間滞在した。戦争中としては贅沢な、非国民的な行為だったのではないだろうか。
渡辺町時代には住み込みのお手伝いさんが常時3人いた。一人は母の手伝いが主で、食事も作っていた。あとの二人は姉と私の世話をする乳母の役割で、幼稚園の送り迎えやお風呂の世話などをしてくれていた。私のために田舎から出てきたのは当時15歳のきやという女の子だったが、きやでは呼ぶ時にきゃ!と聞こえるからと、りつと呼ばれることになったという。家に来た時にトラホームという目の病気を患っていることがわかって、すぐに目医者通いとなった。幼い私の腕を引っ張って、肩が抜けてしまって騒ぎになったという事件もあり、母や年長のお手伝いさんたちからかなり厳しく叱られながら、だんだんとものがわかってきたという。東京の生活になかなか慣れなくて、買い物などで街に出るのが苦手だったという。飛鳥山公園はその当時も桜で有名だったが、家族でお花見に出かけた時、私をおぶったまま迷子になった。家の住所もわからなくて泣いているりっちゃんの背中で、幼い私が家の住所を警官に教えた、という話が家族のエピソードとして残っている。
無口で、才走ったところの全くない、体の動きも鈍い「田舎の娘」そのもののりつに、母は二言目には「本当に手を焼かせる」と愚痴りながら、結局母が疎開先に連れて行ったのは彼女だつたし、戦後の困窮時代も、高度成長期も、そして生涯、母は彼女と家族の世話をし続けたのである。りっちゃんは15歳の時から私たちの家族の一員として大人になっていったのである。
姉の世話をする乳母は、和ちゃんといって、千葉県館山市の旅館の娘で、女学校出の利発な女性だった。彼女はやがて父の会社に勤めていた人と結婚をして、憧れだったという都市サラリーマンの家庭生活を送るようになったのだが、すぐに夫が戦争にとられて、一歳の子供を残して戦死をした。彼女もまた、その後生涯水田家と切り離せない人生を送ることになった。
3歳年上の姉は渡辺町の家から千駄木小学校に入学した。しかしその後疎開することになり、勝山小学校に編入学した。私は姉の千駄木小学校時代の話をあまり聞いたことがないのか、覚えていないのか、記憶にないのだが、それは勝山での姉の学校生活についても同じだった。ただ、千駄木小学校の一年生受け持ちの先生が、家族の親しい友人となったこと、そしてその家族との交流は生涯続いたのである。その先生は中田先生と言って、ご夫婦共先生だった。疎開先の勝山に一家の4人のお子さんのうち3人が一緒にしばらく住むことになった時期もあり、戦後も親しい付き合いが続いた。その私たちも含めた付き合いは、お子さんたちやお孫さんにまで続いたのである。
戦争で渡辺町一帯は焼き尽くされ、そこに住んでいた家族は皆バラバラになって、戦後に皆が元に帰ってくることはほとんどなかった。私たちの家も家族も同じであった。しかも敗戦後の貧窮時代に、疎開先から帰れるにしても何年もたってからという人も多く、元のコミュニティが再現されることはほとんどなかったと思う。戦後の復興では、一戸建ての跡地にはマンションが建つようになり、住宅地そのものを大きく変貌させたのである。
1967年留学先のイエール大学を出て一時帰国した時に、私は田端の家の跡を訪ねたが、一目ではどこがそうだったかわからなかった。あとで開成中学のテニスコートがそうだと聞かされたが、それはあまりにも跡も名残も残さない、変貌というか消滅の風景だった。しかし間も無くそれもなくなって、1972年にもう一度行った時には辺りはすっかり新しい住宅地に変わっていた。石川柏亭さんの娘さんたちが、色々とその当時の写真や記録を集めていて、それが活字になっているのを読んだことがある。柏亭さんのお家へは、その頃母、姉と伺った記憶があり、洋風でおしゃれな感じの、ステンドグラスのあるお家だった。
1970年代に私はロスアンジェルスの大学で教えていたが、ある時突然、高崎さんの恵子さんが研究室へ訪ねて来てくださったのである。生涯教育プログラムの盛んだったロスで、何かで私の名前を見つけたのだろうと思う。その時の感激は忘れることができないし、思い出すと今も胸がいっぱいになる。恵子さんは昔の面影を残した聡明な女性で、ロスで仕事をしていられた。妹の邦子さんのことも色々お聞きして、再会を約したのである。とにかく私たちは、3歳から7歳くらいの小さな子供たちだったのである。それから30年は経っていた。田端ではなくロスでの再会が、二人とも遠くまで来たという感慨をひときわ胸に響いいた。
3月10日の大空襲で跡形もなく焼き尽くされ、財産を一夜にして失うという悲劇によって、敗戦以前の3月には、すでに近隣の家族は皆どこかへ移っていったのだった。その上敗戦という大きな断絶にもかかわらず、渡辺町での知人や友人との交流が長く続いていったのは、昔は知人や友人、そして人との絆の作り方がごく限られた範囲と仕方で、今のように一度に多くの人たちと交流ができるような「ソーシャルネットワーク」の作り方はなかったので、人との繋がりが、限られた血縁と地縁に依拠していたからではないだろうか。それだけにその関係や絆は利害を超えたものであることが多かったのだと思う。
同窓会や同期会、県人会、会社の同僚など、学校、大学、会社などによる繋がりは大きくなっていっても、血縁関係は少なくなり、また隣組のような住む地域の地縁も希薄になってきている。テレビに出ればいっぺんに多くの人に知られるようになるが、いずれにしても戦前の短い幼稚園時代の知り合いにアメリカで再開するなどは運命的なことのように思えた。地縁は記憶の中の最も深い場所との縁であるのだ。
渡辺町の家に多くの客や父の知り合いが訪ねてきたという記憶はほとんどない。私が幼かったのだから記憶にないのは当然であったかもしれない。しかし、父は政治家として名を知られるようになり、大蔵大臣を歴任して、財界、産業界、教育界などに多くの知人を持つようになっても、親しく付き合う人たちは昔の友人や郷里の人たち、そして若い頃の知り合いの人たちだった。戦時中の渡辺町時代には特攻に見張られていたということだし、大きな企業に就職していたわけでもないし、軍隊にも人脈があるわけでもなく、親族といっても、田舎のせいぜい小規模な地主の家の出であれば、多くの客や知り合いが家を訪ねてくることが少なかったのは当然であるだろう。
水田家の縁者で東京に住んでいた人はすくなかったが、父の従姉が寄席などの貸し席劇場を経営する人と結婚して深川に住んでいた。父の母の実家の田村家の人で、評判の美人だった。粋な着物姿の夫婦で、深川という下町の賑わいの中での商売で、生活も華やかだったという。はとこに当たる人たちは私たちよりも年上だが、それでもずっと戦後も付き合いが続いて、その一人から私は相撲部屋に連れていってもらったことがあった。父の故郷の曽呂村から上京する親戚は、必ずそこで美味しいものをご馳走になって帰ったらしく、結伯父もたまにご馳走になりにいっていたということだった。それも戦時中という非常時体制の下のことで、交友関係も自粛ムードだったのかもしれない。渡辺町時代の父は30歳になったばかりでの頃で、知り合いが出入りしない渡辺町時代は当たり前だったのかもしれない。
その寄席席も3月10日の大空襲ですっかり焼けてしまった。戦後スマックとかいうアイスクリーム会社に勤めた伯父に会ったことがあった。小唄や芸者遊びなど、寄席席のオーナーとして、ほとんど遊んで暮らしていた人が、戦後の有楽町でアイスウリームを売っていた姿は頭に焼き付いている。食料が極度に欠乏していた時代に、アイスクリームは飛ぶように売れたそうだった。
渡辺町時代の父は、結伯父と同じように、戦争に行かない男性として厳しい戦時中の緊張した統制時を過ごすことについて思うことが多かったのだと想像する。その意味では、親や息子、兄弟を戦線に送っている家族に比べて、軍事政権下の緊張は、田端時代の我が家では緊迫した空気をもたらしていなかった。誰も戦争のことを話さなかったし、愛国主義者として振舞うこともなかった。父はいつも仕事で外に出ていたが、家族はそれまでと変わらない雰囲気で、子供たちのしつけに関しても、今は大変な時なのだから、というようなことは全く言われなかった。その沈黙は結伯父の存在が影響していたと思うが、それ以上に父の原則的な沈黙にあったのだと思う。父は決して偉そうなことを言わない人で、誰に対してもお説教することは一切なかったが、戦争批判も、加担の言辞も一切言わなかった。田端時代の父は幼い私たちにとってはむしろ不在で、何も影響を与えない、沈黙した、見えない存在だった。
ただ私たちが普通の人より早く疎開をしたのは、父が激しい東京空襲を早くから予見していたからだと母はよく言っていた。母は父がこの戦争は勝ち目がないと早くから言っていたという。父の鋼板製造会社は次第に軍需製品の生産を強いられていくようになり、父は忸怩たる思いがあったと思う。その辺りは父の自伝でもあまり詳しくは触れられていないが、渡辺町での、有事とは思えない、何事もないような平凡な日常生活が、むしろ普通ではなかったような気がするのである。そしてそれが、私が経験した戦前の世界、都市中産階級の家庭の経験だった。
それもあってか、私の幼年期はあまりにも緊張感にかけた夢の中の時間のように思える。父や母の姿は私の記憶の中ではぼやけていて、今でも鮮明に思い出される数々の場面は、まるで映画の中の一コマのように、現実感や激しい感情の喚起、呼び起こされる歓喜や苦しみのない、いわば物語の中の場面のようである。それは私がこの時代の経験を内面化することが少なかったからではなく、この家での幼い頃の時間が、気配として流れる時間だったからであるだろう。いじめられた思い出や、姉妹間の喧嘩や軋轢などは、心に何の痕跡も残していないし、父や母に対する感情も同じである。留守で寂しかった思いの痕跡もない。私はそこで住んだのでもなく、暮らしたのでもなかったのだ。「生まれた家」の洞窟のような守られた空間で、そこに漂う気配の中にいたのだ。まるで神話的なたゆたうような時間は、確かに流れていたのではあっても、どこかスピード感や強度に欠けている。その中でうごめく者の一人だったのである。田端の家は父母が不在の記憶として残っていても、そこは確かな父の気配が漂う場であった。
個人的には針を踏んでの手術、2.26事件後の軍事政権、日中戦争がアジア、そして太平洋戦争へと進展していく国家非常事態下の世間の緊張、家族や知り合いが次々と戦場へ出ていく不安、私の幼年時代はまさに、非常事態下の時間だったのだ。それにもかかわらず、記憶の世界を流れる、ゆったりとした、非現実的な、神話的な時間の流れは、家の中を流れる時間のたゆたいでもあったのだろう。それは父の内面の時間でもあったのだと思う。父にとっての敗戦後の大きな人生の転換はこの時代には予測できなかっただろうが、それでも戦後の世界と身の立て方などを考える準備期間のような沈黙の時間だったような気がする。父がただ口を噤んで非常時をやり過ごそうとしていたのではないことは、国会議員とになるための総選挙に出る決断が降伏後間も無くできていたことでも明らかである。
それに比べて、このすぐ後に続く勝山での疎開生活は、幼い私にとってもどこか現実の厳しさに立ち向かう実感に満ちたものとして記憶に深く残るものとなった。
生活の場が急激に、しかも全く違うのもとなり、母の存在が、日常のすべての時間を強烈な密度で占めるようになった。父は相変わらず不在だったが、母と娘たちの密接な生活が、狭い家と異国のような場所で始まったのである。
2020/05/8
本全集は全12巻にわたる近代の出発期から現代までの女性文学を集成した日本ではじめての〈女性文学全集〉である。
第10巻は水田宗子の編集と解説によって、フェミニズム批評から見えてくるものは何かをもっとも明らかにしてくれる出色の1巻だ。
戦中から敗戦後にかけて自己形成し、1960年代以降に活躍した倉橋由美子・河野多恵子・大庭みな子・富岡多恵子・高橋たか子・三枝和子・岩橋邦枝・田辺聖子の作品を収録。
これらの作家は新憲法の男女平等思想や世界の新しい思潮を享受しつつ、家父長制の社会・家族・結婚制度における性差の現実との苦闘を余儀なくされた世代である。第二波フェミニズム批評の旗手水田氏は、彼女らの文学表現の深層には性差文化のディストピアが埋め込まれ、ジェンダー構造の破壊と鋭い批判を目指す、近代小説のアヴァンギャルドだと指摘。
男性主体の批評では見えなかった女性表現の深い闇を解き明かし秀逸である。
六花出版、2019年9月
定価・本体5,000円+税
2020/05/8
Mizuta Table of Contents Mizuta Chapter 1 Mizuta Chapter 2 Mizuta Chapter 3 Mizuta Chapter 4 Mizuta Postscript
2020/03/16
フェイクニュースとフィクション 中沢けい×水田宗子
pp1-29
2020/03/9
現代女性詩論序説 戦後女性詩のカノンの形成と消滅(第2回)
pp.88-101
2020/03/5
論文
現代女性持論序説Ⅰ 水田宗子
pp2-31
2020/03/5
小屋といえば、サダキチハートマンの晩年の家はまさに小屋というにふさわしい砂漠の中の家だった。カリフォルニア州のリヴァーサイドに住むようになったのは1971年だが、そこはロスから90マイルばかり東へ、内陸に入り、そこからずっと続く砂漠の入口のような場所にある街で、昔はハリウッド関係の人たちのリゾートだったという。ニクソン大統領が結婚式をあげたというミッションが街の真ん中にあり、ハリウッドの映画をまず最初に上演したという大きな映画館も残っている。戦後はリヴァーサイドからさらに砂漠の奥深く入っていったパーム スプリングが、フランク シナトラや副大統領のフォードが別荘を構えた本格的リゾートとして繁栄し、リヴァーサイドは昔の面影を残しながらも、ロスの郊外でもなく、リゾート地でもない、カリフォルニア大学のリヴァーサイド校のある大学街として、人口15万人の独立した地方都市となっている。
リヴァーサイド校にはジョージ ノックスという英文学者がいて、サダキチハートマンのアーカイブを図書館に作ろうとしている時期に、私はリヴァーサイドにニューヨークから移り住むことになった。なぜ彼がハートマンに興味を持ったのかは、リヴァーサイド近辺に住む少年小説を書いていた作家ハリー ロートンがいて、彼から、ハートマンがメランゴ インデイアン居住区に晩年なくなるまで住んでいたこと、そしてそこに彼の原稿や生涯の仕事の記録や資料をなどが入ったつづらが残っている、その整理と調査をしてくれないかと頼まれたからだという。
サダキチ ハートマンと聞いて、私は大変驚いて、それまで心のなかに燻っていたリヴァーサイドへ移住することへの逡巡がすっかりなくなり、この地の果てのような、砂漠へ隣接する街へ来たのは何か運命的なことだったような気がしたのを覚えている。私は東京女子大で、太田三郎先生から比較文学を学び、サダキチハートマンについて書かれた著書を読んでいたのである。比較文学は当時は国別に分類されていた文学研究分野の亜流と見られていて、文学漫遊だと相手にされないことも多かったと、後に島田謹也先生からよく伺っていた。大学院に都立大学を選んだ理由の一つには島田先生が比較文学を講義していられたからであった。大学では英文学専攻だった私にとって、アメリカ文学も、日本文学も一緒に扱うことができる比較文学は新しい批評の可能性を秘めていると感じたのである。
私は早速ノックス先生にお会いし、サダキチ ハートマンの住んでいたと言う家を見に連れていっていただいた。メランゴリザベーションはその頃はアメリカ中で一番の荒地という評判の居住区だった。同じインデイアンのために与えられた土地でも温泉が出たパームスプリングスなどは経済的にも潤っている場所であり、その他にも石油が出たりして、豊かになったところもある。しかしこのリザーベンションはその頃は文字通りのバッドランドであり、オアシスもなく、とにかく水が出なかったというのだから、経済的にも、また生活の上でも、大変な貧困地帯であった。実際、そこには小さな、コレクションも少ないミュージアムがあるだけで、観光客も来なかったに違いない。私がリヴァーサイドを離れた1980年代の半ばまでは、アルコール中毒や病気がはびこる問題地域であった。ちなみに現在はカジノが出来て、大変繁栄しているということで、それもまた驚きでもあった。
そのリザーベーションの中の小さな小屋がサダキチの終生の住処だった。彼が小屋の前に立っている写真が残っているが、彼は晩年そこでインデイアンの女性と暮らして、子供ももうけていたのである。ハートマンは明治の始まる前年に長崎で、ドイツの商人のハートマンとお貞(定?)という女性の間に次男として生まれた。二歳にもならない頃にお貞がなくなり、父親のハートマンは子供達を連れてドイツのハンバーグに帰国し、そこでドイツ女性と結婚した。ハートマン兄弟は厳格なドイツの家庭で育てられたのである。サダキチが十七歳ぐらいの頃、彼はアメリカに渡り、以来アメリカで暮らし続けた。ハートマンが知られるようになるのは、能のような寸劇(キリスト、仏陀、孔子についての劇で、不謹慎だというかどで上演禁止となり、警察で調べらたことで名が知られた)を書いて演出したり、香を嗅ぐ会として香水の嗅ぎ比べの会を催すいわばエンターテインメント芸能人としてである。日本のことを知らず、また幼い頃日本を出てから生涯日本の地を踏むことはなかったが、日本人としてのアイデンティティを強く前面に出して、日本を「武器」にオリエンタリズム時代のアメリカで芸術家のエンターテインメント人として人に認められるようになった。彼はまた芭蕉の俳句の翻訳をして、俳句を流行させたことでも知られている。短歌も書いていて、その原稿は出版され、残っている。メランゴの家のつづらには芭蕉やほかの俳人の作品の{英訳」が残っていたが、翻訳とはいえない、内容も異なる彼自身の創作短詩という方が適切である。
そのようなどこかまがい物扱いをされがちな芸能人がニューヨークの芸能界を生き抜いて行くことはできないのは当然で、ハートマンはアメリカ各地を放浪して、やがて砂漠を超え、ハリウッドまで流れ着いたのだという。ハリウッドではしかし映画俳優としても、特異なタレントとしても評判がよく、ダグラス フェアーバンクスの「バグダッドの盗賊」では盗賊の頭の役で、今でも人々の印象に強く残っていると思う。チャップリンに、フィンガーダンスを教えたのも彼だということである。彼は背が高く日本人らしい端正さとドイツ的な彫りの深さを併せ持つ風貌で、映画人だけでではなく、一般の人にも人気者であったということである。
つづらには定吉が描いた多くのパステル画が残っていたということである。ノックス教授はそれらを購入したということなので、リヴァーサイド校にはそのコレクションがあるに違いない。サダキチの娘さんのウイステリア ハートマン リントンさんは当時カリフォルニア大学リヴァーサイド校の写真家として勤めていて、ちょうど退職してアリゾナに移ると言っていた時だった。私も彼女にお会いしてハートマンのパステル画を3枚譲ってもらった。いいのは皆ノックス先生が持って行ったと言っていたが、私はそれら三枚の絵が気に入っている。綱渡りをするピエロや砂漠の山の絵で、パステルの青が実に美しい。世紀末のヨーロッパのサーカスやミュージックホールで演じるピエロの華奢な姿がいわれのない深い郷愁をそそる。
ポオも同じだが、亡くなった後の原稿や遺品の整理は、親身な家族がいたとしても、一筋縄ではいかないことなのである。ウイステリアは自分の身辺整理の中での父親の遺品の整理もかさなっていたので、私は幸にも絵を手にいれることができたのだ。それらの絵は砂漠のインディアン部落の小屋では飾られることはなかったであろうし、その頃は大学でも公開できるような場もなくて、まだ資料の段階で埋まっていたのだ。
ノックス教授はハートマンが写真批評を書いていたことを発見して、ハートマンが写真が表現メディアとして使われるようになり始めた当初から、写真表現を取り上げ続けた優れた写真批評家であることを高く評価している。事実ハートマンは写真批評の事実上の草分けとして、今日知られている。その業績は現在では本にもなっているが、当時は写真はダエレオグラフの域を出たばかりであり、ハートマンの感性や前衛芸術か、批評家としての目の確かさの証である。ウイステリアが写真家であったことは偶然ではないのだろう。ハートマンは芸術批評という分野で、文化的交流、影響、伝搬という根源的な的な課題を、身をもって実証した人物でもあったが、オリエンタリスム流行に乗ったエンターテイナーとしての評価が先に立ち、中々大手の、エスタブリッシュの出版界で著書を出すことができなかったのは、ポオの場合と同じだったのだと思う。サダキチも、ポオと同様に、批評の現在性を重要視し、雑誌というメディアに力を入れ、彼自身写真批評の雑誌を創設、刊行している。
定吉がもっと長生きをしていたら、というよりは第二次世界大戦が勃発しなければ、おそらく彼は晩年日本へ来たに違いない。ノグチ イサムもまた放浪のアーティストだったが、その芸術家としての生涯は自らの内なる日本を見つけ出して行く過程であったと言えるだろう。それを思うと砂漠の中の晩年、ハートマンが何を考えていたか知りたいと思う。ハートマンはフロリダに娘を訪ねている時に亡くなったが、ボヘミアンとしての生き方を生涯貫いて芸術家だった。
その晩年に関しては、興味深い話が残っている。彼は近くの郵便局へ毎日のように手紙を受け取りに行っていたらしいが、マラルメやヴァレリー、パウンドなどから手紙が届いて、郵便局の人たちを驚かせていたという。しかしその謎めいた生活が、世界大戦が始まってからは彼がスパイであるという嫌疑をかけられることにつながり、CIAや警察に見張られていたという。サダキチはよく砂漠の裏山に登って考え事をしていたというが、それが、どこかと交信しているのだと疑われたということである。ハートマンは若い時から、ヨーロッパの象徴主義芸術に深い関心を持ち、その影響も受けている。マラルメとも交流があり、それが晩年まで続いていたことがこのエピソードでわかるのである。前衛雨滴モダニストとしてのハートマンと、日系人人としてのハートマン、象徴主義芸術と日本文化の関係、そして写真批評の先駆者として、ハートマン再評価は、ジョージノックス先生がアーカイブを作り資料を出版し始めた1970年代から始まり、今日ではますます関心が高まっている。私のハートマンとの再会は、私自身が異国の未知の砂漠の入り口の街街リバーサイドに住むための旅と重なっていることに改めて感慨が深い。
明治開国となっての外国人と日本の女性の恋愛物語は「蝶々夫人」でも有名だが、サダキチは母がお貞(定)という名前だったこと以外に、何も知られていないし、サダキチ自身も知らなかったと思う。定が幼い頃に亡くなったことやその後家族がドイツに帰り新しい母親に育てられたことなどから、お貞に関する資料を探し残そうという動きがなかったこともあって、サダキチは大きくなってもほとんど母親のことを知ることもなく、その機会にも恵まれなかったのだと思う。サダキチという存在が唯一の歴史的時代の東西二人の男女の出会いの記録なのだ。
サダキチの存在を長い年月の間日本も日本人も知らなかったのだから、彼を探し出したのが、ハリウッド映画界という不安定で一攫千金と名声を狙う場、スターも生む代わりに落ちぶれも作り出す、いわば天国と地獄が一夜にして入れ替わる、詐欺師と本物の区別がつかない、野望と自堕落が渦巻く人間劇の場であったのは異邦人芸術家の行き着いたところとしては当然であったと言えるのだろう。
リヴァーサイドからRoute 60に乗ってロスへ向かうとやがてハリウッドの丘が見えてくる。メランゴインディアン居留地とハリウッドを結ぶのは、私が毎日南カリフォルニア大学へ通っていた同じハイウエイだったことに何か運命的なものを感じた。1959年東京女子大学で太田三郎先生からサダキチハートマンについて教えていただいてからの長い年月が、このハイウエイの続く道の果てに蘇っているような時空を超えた錯覚に襲われた。
コンコードの家とポオの小屋、その違歴然としていながら、今では観光スポットになっていることにはない。ソローのウオールデンの小屋とインディアン居留地の小屋は同じ小屋でも知識人が意図的に隠遁するために建てたい場所と食い潰れて流れてきた居場所と、その違いはこれまた歴然としているのだが、これらの居場所には、作家の家という共通項があるのだ。そうならば資産価値や作家の生前の社会的位置や経済状況には関わらない居場所としての共通項があるのではないだろうか。ユルスナールの家はそのことを強く感じさせた。家族の中で書いた作家と、一人居の孤独やプライバシーを守る中で書いた作家、社会や世間から受け入れられる存在を目指した作家と異邦人としての意識をを持ち続けて書いた作家。家や居場所は作家の自己意識と創作の原点となる自己存在意識を表彰していると思った。作家自身がそれを意識していたか、意識してそれを選んだかどうかは問題ではなく、結果的には彼らが残した作品と住んだ場所は分かち難く結びついているように感じたのである。
(了)
2020/03/5
アメリカに留学して一年目の1962年の夏にワシントンからミシシッピー経由でニューオーリンズへ旅する途中に、ボルテイモアのポオの住んだ家を訪ねた。その時はフォークナーの家のあるミシシッピー州のオックスフォードへいくことの方に、胸を膨らませていた。実際のところ、オックスフォードの家に閉じこもって仮想の南部世界を文学に再現したフォークナーと、生まれた時から自分の家がなく、住む場所を転々としたポオとでは、家や居場所の意味が全く違う。仮住い のポオ の家にはあまり期待などいだいてはいなかったのである。ボストンのミュージックホールで舞台に立っていたポオの若い母親は、ポオの父親が何処かに行ってしまったために、一人で赤ん坊のポオを抱えて舞台で歌っていたという。舞台裏の楽屋がいわばポオの託児所で大人しくさせるために、ウイスキーやジンをしみこませたパンを与えられていたなどと書かれている。その母親も亡くなってボオはリッチモンドの商人の家に引き取られて育てられる。しかし正式な養子にはしてもらえず、ヴァージニア大学に進学中に問題を起こしたかどで退学になると父親から勘当されてしまう。養父の家をポオが自分の家とも居場所とも感じたことがなかったであろうことは察しがつく。
ポオの人生は謎に包まれていて、ポオ自身の話にも嘘が多かったともいわれているし、その上ポオが信頼して自分の原稿を託した編集者が、ポオについて、アルコール中毒で、性的不能者であったという伝記を書き、ピューリタンの伝統が強いアメリカでポオは死後高く評価されるどころか忘れられ、ポオの全集は死後50年以上出版されることがなかった。
ポオの決定的な評価はボードレールによってなされることになったが、そのために日本での評価もボードレール経由であったのはポオにとっても日本の読者にとっても素晴らしいことだったと思う。しかしアメリカで無視された年月が長かったためにポオの伝記的な資料や住んだ家やアパートの保存などは大変少なく、同じ時代のホーソンやメルヴィルとは比べ物にならない。
ボルティモアのポオの住んだアパートは街外れの寂れた場所にあり、危険な場所だと行く前に注意されたくらいのスラム街で、アパートの建物の隣の建物はもう取り壊されていた。中に入ることはできなくて、外から眺めただけであったが、よくそれまで残っていたと感心したほどひどい状態の建物だった。ポオは晩年をニューヨークのフォーダムで過ごしたが、亡くなったのはボルティモアの路上で、叔母で義母のマライア クレムの住んでいたボルティモアに来ていたようである。その町の路上で倒れているところを見つけられたという。マライア クレムはポオのたったひとりの親戚でその娘のヴァージニアと彼女が13歳のときに結婚している。ヴァージニアが貧困のうちに肺結核で1848年に亡くなってからポオは悲しみと苦しみで自己破壊の淵に立っている状況を叔母に手紙で訴えている。ポオ自身はその一年後の1849年に40歳で亡くなっている。
そのヴァージニアと暮らした家、「ポオの小屋」と呼ばれる家が ニューヨークのフォーダムに残されていた。フォーダムはニューヨーク市ブロンクスのフォーダム大学のあるところだが、ポオの当時は本当に畑の広がる田舎の一地域だった。キリスト教の僧院があるような場所だから、周りには何もない、むしろ人里離れた場所だったはずである。それはホーソンやメルヴィルの住んだボストンの郊外と同じである。ポオの「コッテジ」と呼ばれるにふさわしい小さな小屋のような家で、中には家具らしいものはあまりなかった。大きな黒猫が病気のヴァージニアを温めるために布団の上に座っていた、と言われている。そのベッドも小さなものだった。私がそこを訪ねたのは1960年代半ばの冬で、ポオで論文を書き終えたころで、夫がフォーダム大学に勤めようかと考えている時だった。
ポオについて書いている間、私は彼の生活の実態や貧困の程度などについてあまり具体的に考えたことがなかった。文学雑誌の編集者として作品創作も旺盛に行っていたポオは、彼を尊敬して慕い、新しい雑誌のスポンサーになろうという年上の女性が一人ならずいたことも知られていたので、貧乏ではあっても、食べることに事欠く生活だったとは思っていなかったし、貧困と創作の関係は、ポオの作品の中にはほとんど手がかりになるようなものがなかったからでもあった。しかしポオのコテッジに私は強い感銘を受けた。そこには貧しさだけが、質素さではなく、むき出しに「表彰」されていたのである。
ポオが親も後ろ盾も、資産も、住む家も持てない人生を送り、いつも貧しかったことが、社会への定着の不可能さや、社会的な評価の低さに深く関係していたことは明らかで、ポオの特異な主人公たちの形成に大きな影響を与えていることも確かに思える。日本作家では林芙美子は貧困を売り物にしたとかえって意地悪く批判されたこともあったが、同じ貧しくても尾崎翠の作品には、貧困との関係よりも主人公たちの俗社会に根を下ろさない生き方が強い印象を与えている。意図的に隠遁生活を選んだ作家たちの、質素でも決して貧しいとは感じさせないソローの小屋や、鴨長明の方丈の家とは異なった作家の家がボルテイモアのスラムにあったのである。
かなり最近、そのフォーダムの小屋が、フォーダム大学のキャンパス拡張のために取り壊されたと新聞で読んでショックを受けた。しかし、現在は小屋は他の場所に移されて、美術館として公開もされている。写真を見ると家の中には色々な家具が置かれていて、ポオの生活が決して貧しくはなかったようにしつらえてある。貧困は確かに人間の尊厳を損なう屈辱でもあるが、芸術家や作家、詩人は決して金銭的に豊かで、社会的名誉を国家から認められているような生涯を送らない中で、後世に残り、時代も場所も超えて人の心に響く作品を残してきたのである。チャップリンの浮浪者はポオが原型だというが、hoboの代表格ポオの小屋が残っているのは、稀有のことなのであるだろう。家に象徴される家族を通しての社会的定着を持たなかった作家や詩人のアパートなどは保存されることはほとんどなかったのは当然なのである。しかし今は大勢の人たちが海外からも訪れる観光人気スポットである。
ホーソンとメルヴィルはポオと並んで文学想像力の持つ「黒い力」を作品に表彰した作家として、アメリカ文学批評家のハリー レヴィンに高く評価された作家である。ホーソンは生前は社会的評価が高かったとは言えないし、メルヴィルは長い間船員として海洋放浪をしていたなかから多くの作品を書いた作家でもある。しかし彼らの家が残されているのはエマーソンやソローという友人たちの社会的、文学的評価が生前から定着していたからであろう。その点、南部出身で、トランセンタリズムや東部の知識人への反感と批判を持っていたポオには、彼の作品をを評価する作家や批評家の友人にも、そして彼の生活を助ける編集者や友人にも恵まれていなかったのだ。ホーソンやメルヴィルが住んだボストンの郊外が、現在観光地としても高級住宅地としても高い資産価値を持つようになっていることに比べて見ても、アメリカにおけるポオの再評価がもう少し早く行われていたらよかったのにという思いを禁じられなかった。
ポオ評価は、しかし、20世紀後半に入ってからは高まるばかりである。アメリカよりもフランスや日本で最も早く高い評価を受け、その影響が大きく続いていることが、やっとアメリカの一般社会にもわかってきて、ボストンにもポオの銅像が立ったし、フォーダムの小屋は修復されてそこを訪れる観光客は年々増え続けているという。小屋の修復には日本人の著名な建築家が加わってもいる。
同じ感慨を私は尾崎翠についても持ったことがある。尾崎翠は現在ではその作品の評価は定着しているといえると思うが、それまでには長い年月があり、しかもその生涯は貧しく、晩年は無名のまま養老院で過ごしている。忘れられた作家の代表のような生涯を送ったのである。鳥取県が尾崎翠を顕彰し始めたことは嬉しいことだが、地域おこしとして作家や詩人、画家を行政が手がけることは、常に複雑な課題もはらんでいる。ポオの場合も、アルコール中毒や性的不能者、変態者であるという噂が彼の社会的認知を著しく歪めたように、作家や詩人、芸術家の性的特徴や俗社会の規範を逸脱したり、過剰な行動を行政がどのように理解するか、が課題となる。少しでも規定に外れたことを摘発し指導することを生業にする行政が、喜び推奨するような生き方をした人なら、芸術創作はしなかったのではないだろうかとさえ思ってしまう。ハリー レヴィンのいう文学の内包する「黒い力」を評価するには俗社会を超える想像力を必要とするのだ。
ポオが友人に恵まれなかったのも、ポオの生き方から当然のことでもあり、金持の女性からの援助を最終的には断ってしまう、その強情とも言える自負心に満ちた孤独への向かい合い方には、惹かれるものが多いが、尾崎翠には、彼女を尊敬し、貧しい時代をともに生きた林芙美子という友人がいた。鳥取に帰って創作をすっかりやめてしまった尾崎翠の消息を林芙美子は知らなかったことは事実だろうが、なぜ尾崎を探し出す努力や、文壇に連れ戻すだけではなく、せめて少しでも金銭的な援助ができなかったのかと、悔しいような、恨めしいような気持ちになる。長い晩年を沈黙し続けた尾崎翠への愛惜と無念と、同時に尊敬に満ちた気持ちを抱かずにはいられない。もし書き続けていたなら、どのような作品が生まれていただろうかと、優れた感性と想像力、才能を持った作家の沈黙に心を揺すぶられるのは私一人ではないだろう。 豊かになった現在の日本では新人作家を育てることがむしろ難しくなっているのは皮肉なことではあるが、同時に、創作へ駆り立てるもの、芸術家の想像力と感性の根源について多くを考えさせられるのである。
(了)
2019/12/20
第4回悦子プライスグローバルレクチャー
The Fourth Etsuko Price Global Lecture Series
フランスルーブル美術館ギメ東洋美術館の創設者エミール。ギメ研究の草分け尾本圭子さんの講演会が日本女子大学百年館で行われます。
4時からです。ご都合のつく方はぜひご参加ください。
2019/11/29
あと2巻で全集が完了します。
2019/11/1
2019/10/31