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水田宗子

幕間

崖の上の家:母の声、父の気配 序章

2020/08/3

『崖の上の家:母の声、父の気配』

 

序章

 

 

私が長く住み、そこで成人となった西片町の家は父と母の家であり、やがて私がそこから出ていく家だった。私は1961年にアメリカへ留学のためにそこを発つったので、西片町の家はそこで終わりを遂げた家となった。留学から帰った時、父と母は近くに家を建ててそこに移り住んでいたのだ。その新しい父母の家に整えられていた私の部屋は、家族を連れて帰国した私には、狭くて住めなかった。私の西片町の家は、文字どおり1961年でなくなっていたのである。

現在も私は西片町に住んでいるが、それはずっと後になって、年老いた母の近くに住むために建てた家であり、私の子供たちが生まれ育った家ではない。その家に住むようになって、初めて私は西片町という場所になぜ連れ戻されたのか、その本当の意味を知りたいと思うようになった。アメリカから帰って以来、私は家を探し続けていたが、どの場所も母の了承が得られず、結局母の近くに住むことになったのだが、それは本当の理由ではなかったように思い始めたのだ。私の心の底に、西片町は大きな痕跡を残したままで、かつての家は空白の空間としての心の風景にたち続けていたのである。

西片町に住むことは私の記憶の呼び戻しであると同時に、そこに住んだ作家たちの書いた作品の中の「場所」との遭遇でもあった。そして何よりも、その頃の、若かった父と母の生活の姿との記憶の中での再会を果たすことでもあった。西片町は、このように私自身の大人への成長の日々の記憶を中心に三つ巴の想像の世界へ引き込んでいく場所となった。

 

私が中学生になった頃から住み、現在もその界隈で暮らしている西片町は、本郷通りを弥生町と言問通りの交差点を過ぎてすぐに左に折れる旧白山通り、現在の国道17号線へ入って、その関越に続く通りの左側に広がる地域である。

西片町というのだから東片町も昔はあって、現在は向丘に統一されて地名としては使われていない。東片町は旧白山通りと本郷通りの間にあるあまり広くない地域で、そこの一軒家の一階を戦後間も無く父と母が借りて住み、3年ほど遅れで私たち姉妹も疎開先から移って一年あまりそこから小学校へ通った。1951年、中学に入った頃に、東片町から西片町の家に住むようになり、私はその西片町の家で中学から大学、そしてアメリカへ留学する1961年まで大学院時代もそこで暮らした。

西片町と東片町はどちらも空襲に焼け残った場所だが、そもそもが大変雰囲気の異なった住宅街で、戦後すぐの頃まではその違いが歴然としていた。東片町は本郷通りと旧白山通りの間のかなり狭い地域で、門や庭のない小ぶりな家が軒を並べていた、いわゆる庶民の住む街だった。東片町から本郷通りに出ると、そこは追分町というところで、現在は東大農学部、そして言問通りを挟んで広がる、東大キャンパスとなっている加賀百万石の大名上屋敷の生業に関係する人々が住んでいた地域だということがわかる。追分町は馬係や鍛冶屋などの職人が住んでいた場所らしいとも思うが、実は追分宿場で、東京から出て初めての宿場だったという。草野心平さんのおでん屋「呑気」が、つい最近まであったので、知る人も多いと思う。

私の父水田三喜男は1946年の新憲法の下での最初の全国総選挙で衆議院議員となり、東片町の焼け残った一軒家の一階を借りてそこから国会へ通い始めたのだった。1946年当時東京は焼け野原のままで、すぐに住める家を探すのは大変だったという。二間と台所、風呂のついた狭い家だったので、私たち姉妹は父の選挙事務所のある館山市の家に祖父母とともに戦後3年近く父母と離れて暮らしていた。

当時本郷通りには一九番という都電が走っていた。巣鴨や王子駅から日本橋まで、たまには新橋まで行くこともあったように思う。バスは荒川土手から東京駅北口までの路線を走っていて、こちらの都バスは今でも運行されている。小学校の六年生の時に東京の父母と一緒に暮らすことになり、私はこのどちらかに乗って、御茶ノ水まで行き、そこから省線の中央線に乗り換えて、四谷の小学校に通った。

東片町から本郷通りを越えると、弥生土器の発掘で有名な弥生町を言問通りに沿って下り、根津、池の端、谷中と低地になり、そこからまた上野へ坂を登って行く。

西片町は東片町に比べて広い地域であり、そこから坂を下って、現在は白山通りという、巣鴨、駒込方面から日比谷まで続く、低い土地になる。そこから現在の小石川植物園へ向かって、また坂を登って行くので、白山通りはおそらくは川の流れた谷間であったと思う。西片町は福知山藩の藩邸だった場所で、藩校の誠之学校があり、明治以後は公爵となった阿部邸があったところである。現在も誠之小学校、阿部公爵邸の一部が阿部公園、や阿部幼稚園などとして残っている。西片町は東大のあるためもあって、医者や学者の街として知られてきていて、上田敏や夏目漱石、太宰治などの作家も多く住んでいた。

西片町と隣接する街は東大前の地域が森川町と言って侍や職人が住む場所であった。森川町の地名は東片町や追分町と同様に今では使われなくなっているが、明治に入ってからは、旅籠屋や下宿屋などが多くあり、石川啄木、今東光、徳田秋声などが住んだ界隈として知られている。「落第横丁」は今でも健在だが、肉屋、魚屋、八百屋などはもうすっかりなりを潜めてしまって久しい。私はそこのマンションにも子供達とともに住んだことがある。

本郷通りは東大前を御茶ノ水、秋葉原へ向かって、日本橋まで続くが、途中の本郷三丁目あたりからだんだんと緩やかに下り坂になっていき、本郷台地と呼ばれる大地の地形が区切りを見せる。本郷三丁目の角には「かねやす」という服飾雑貨屋があり、「本郷はかねやすまでは江戸のうち」と言われて、江戸の街はずれであったことを表している。秋葉原、広小路、淡路町、岩本町は台地ではなく低地で、いわゆる下町であり、商人や問屋街、そこから茅場町へ進めば金融街となっていく。

一方の本郷台の境は西片町から国道一七号線の旧白山通りと平行に走る、本郷通りを白山上、そして駒込、西ヶ原あたりまでである。白山上からは急な下り坂になって白山下へ出て、現在の白山通りを、後楽園や水道橋、神田神保町へと続き、そして、白山上から反対側は谷中、鶯谷へと隅田川へ向かって急降下していく。

本郷台は東京の台地の中でも広く、また文化的にも江戸や東京の中心的学問文化の地だったが、現在でも東京大学、六義園、湯島聖堂、上野博物館、芸術大学、 上野寛永寺などが昔のままの姿で残り、根津、谷中の寺町、隅田川に続く下町がそれを取り囲んで、江戸時代の地形と雰囲気を残している。

衆議院議員になった父がどのような理由で東片町に仮住まいの場所を見つけたのかは聞いていないが、疎開前には田端や千駄木から日暮らし坂を登った渡邊町というところに住んでいた関係で、本郷は焼け残った区域の中で、全く見知らぬ場所ではなかったからではないだろうか。

とにかく狭い間借り暮らしの、その二間の家に、中国から引き上げてきた父の弟も一時身を寄せていたので、私たち姉妹が住むようになっても、とても家族で住めるような環境ではなかった。しかし、そこから父は国会まで、白山下の低地に降りて日比谷まで行く都電35番か37番に乗って、毎日通った。

私は東片町の家に、小学校の5年生の終わりから6年生の終わりまでの一年とちょっとしか住まなかったが、その一年は、日々の生活の細部まで鮮明に記憶に残っている。その生活の中心には若い父の姿がある。

父は戦争責任やレッド・パージで多くの政治家が政界から排除された戦後政治で、一年生の時から、党の様々な役目を担う地位に付いていた。41歳という若さであったし、占領下の日本の政治は占領軍の指図を受ける支配下にあったので、GHQに行くことも多かったのだと思う。帰ってきた父が浴衣に着替え、小さなちゃぶ台の脇にその大柄な体を横たえている姿は今でも目に焼き付いている。

西片町の家に移ってからは、父は来客とはいつも碁を打っていて、私のコーラスの友人たちの東大生が幾人も家に遊びに来ていた時も、彼らを捕まえては碁を打っていた。母の話によると、結婚前の父は、大学を卒業して失業していた時も、いつも同郷の人や知り合いの人たちが下宿に来ていて、ご飯を食べたり、碁を打ったりしていたという。その頃の物や見かけにこだわらずおおらかで、見栄をはることのないありのままで悠々としている若い父の姿に、母の両親も、そして周りの人も、すっかり魅せられていたと、母は言っていた。

父は千葉県安房郡曽呂村西という山の中の小さな村の、小さな地主で村長の8人兄弟の三男で、大学卒業後は家からの仕送りをあてにすることはできなかったので、おそらく下宿生活は貧乏生活だったに違いない。山村の家で、子供達が中学以上の学校へ行ったのは父の家だけだったそうで、京都での下宿生活には父の一番上の姉で、千葉県の大地主に嫁いでいた叔母からの仕送りがあったのだと聞いている。男の兄弟は全て大学へ行き、姉妹は女学校で勉強させてもらったのだから、教育にかける期待を父の父母は明治人として強く持っていたに違いない。父の生まれ育った曽呂村の小学校は父の生家からは八キロも離れていて、小さい子供たちが通うには遠すぎるので、四キロほど離れたところに分教場が建てられたが、それは明治八年のことだったから、房総半島の突端の寒村にまで、明治の教育法令は確かな成果を上げていたことになる。

東京での下宿暮らしに慣れていた父は、東片町の借り間生活などに驚いたりめげたりすることはなかったに違いない。吉田政権の、身分出自や教養のある政治家の中にいても、いつも野人の気取らない自分のままでいる姿について、私はのちに同じ政治家の方から聞いたことがあった。しかしその中でも、GHQでの交渉から帰って来た時の父は疲れている様子がありありとしていた。私は父が文句や愚痴を言うのを、また弱音を吐くのも聞いたことがないが、うまくいかないことがあったり、嫌なことがあったりしたのであろう時、父はよくちゃぶ台の脇に横になって、そのまま寝てしまうことがあった。

その頃の父は酒豪と言われていて、よく家でお酒を飲んだが、失意の時はあまり酒を飲まなかった。一人で酒を飲むことはなく、酔うと朗らかになり、お腹を出して、腹づつみを打っては母に嫌がられていた。いつもにこにこして穏やかな温顔の父が、黙って寝てしまう時には私たち家族は、敏感に父の苦労を感じ取っていたのである。

父は自民党の役職だけではなく大蔵政務次官にもなった。大蔵省はその頃は四谷の仮り事務所で、父が出省のついでに私を学校へ送って言ってくれたことがあった。たった一度であったが、キリスト教の厳しい学校だったので、私は校長先生から呼び出されて叱られた。当時は車を持つ家族は少なく、何か偉そうに見えたのに違いない。その時、「蛙の子は蛙だから、政治家の子は政治家のように振舞う」と言われたことが、今日まで忘れられずに覚えている。二間の借り家に住んで、占領軍に卑屈な思いをさせられては黙って寝ている若い父の豪放な姿を、私はその言葉で初めて、可哀想に思ったのだった。

しかし、父には「可哀想」と言う言葉は少しも似合わなかった。どんなに不当な扱いやひどい目にあっても、悪意ある中傷に対しても、自尊心を傷つけられることがなく、変わりなく平然としている。自分のためにお金をつかわず、贅沢や見栄を一切はらず、カッコをつけず、浴衣を裏返しに着たままで新聞記者の人たちと会ったり、イワシ好きの粗食で、家での食べ物についての注文や不満を一切言わない、人の悪口を言わず、秘書やお手伝いさんたち、娘たちにも小言を言わない父の一貫した生活態度に、可哀想と言う感情や言葉は不要なのだった。

西片町に移ってから、私は中学生、高校生として、自分の部屋を持ち、物事を考えるようになっていく過程で、いつも東片町での、終戦直後の父や母の姿を原点として思い出すのだった。質素な官僚の家で育った母もまた贅沢な暮らしを望んだりすることはなかったが、父母にとって、敗戦後の暮らしは、さぞ屈辱的なことだったのではないだろうか。ましてや占領下の日本にあってはである。西方町の家は決して広くはなかったが、東片町の家とは比べものにならない、瀟洒な数寄屋作りで、庭に古い蹲のある、戦前の趣味の良い人が住んでいたに違いない趣のある家だった。

私たちが仮住まいの東片町から、旧白山通りを越えた西片町に移り住んだのは私が中学一年生の一九五〇年だった。その家の隣には大きくて立派な家があり、それは占領軍に没収されて、アメリカ人の中佐夫妻が住んでいた。その家の主人が息子のために建てたというのが私たちの家で、家自体も庭も小ぶりで敷地も親の家の三分の一くらいだったのではないだろうか。西片町十のろの一七という番地で、その先の十のろの七というところは漱石が『門』を書いた家のあるところである。私たちの家の裏は崖になっていて、その下は丸山福山町、樋口一葉が住んだ崖の下の、いわば「陽の当たらない町」が広がっていた。

崖に突き出た部分の二階の部屋が私の部屋で、そこから、崖の下に広がる町、白山通りを超えて小石川植物園の森、新宿まで見渡せた。そこで私は大人になっていく時間を過ごしたのである。

 

このエッセイは、自分の姿を記憶の中に辿る自伝的なエッセイであるが、同時に、私が知っている若い父と母の追憶であり、そしてさらに、西片町という場所を流れる文化的な、あるいは文化の深層といってもいい記憶を、戦後の時代の中で辿ってみる試みも含んでいる。その記憶を蘇らせる場は「家」であり、家は私だけの内密な夢想の場でありながら、都市や街の記憶の中に立ち続ける歴史の場でもある。

東片町、追分町、森川町、そして何よりも西片町は、多くの記録を持っていて、今でも散策の人たちが絶えないが、私の記憶の中での最初の家、田端の家があった渡邊町界隈は、あまり多くの記録を残していない。そのためもあって、2歳半ごろから疎開先の房州勝山町へ移るまでの幼女期の数年を過ごした田端の家は、私の生まれた家に等しい、文字通りの夢の家である。この家は3月10日の東京大空襲で36発の焼夷弾を落とされ、一瞬のうちに跡形もなく消え去った。

 

序章

終わり

 

 


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