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水田宗子

幕間

エドガー・アラン・ポオの家

2020/03/5

アメリカに留学して一年目の1962年の夏にワシントンからミシシッピー経由でニューオーリンズへ旅する途中に、ボルテイモアのポオの住んだ家を訪ねた。その時はフォークナーの家のあるミシシッピー州のオックスフォードへいくことの方に、胸を膨らませていた。実際のところ、オックスフォードの家に閉じこもって仮想の南部世界を文学に再現したフォークナーと、生まれた時から自分の家がなく、住む場所を転々としたポオとでは、家や居場所の意味が全く違う。仮住い のポオ の家にはあまり期待などいだいてはいなかったのである。ボストンのミュージックホールで舞台に立っていたポオの若い母親は、ポオの父親が何処かに行ってしまったために、一人で赤ん坊のポオを抱えて舞台で歌っていたという。舞台裏の楽屋がいわばポオの託児所で大人しくさせるために、ウイスキーやジンをしみこませたパンを与えられていたなどと書かれている。その母親も亡くなってボオはリッチモンドの商人の家に引き取られて育てられる。しかし正式な養子にはしてもらえず、ヴァージニア大学に進学中に問題を起こしたかどで退学になると父親から勘当されてしまう。養父の家をポオが自分の家とも居場所とも感じたことがなかったであろうことは察しがつく。

ポオの人生は謎に包まれていて、ポオ自身の話にも嘘が多かったともいわれているし、その上ポオが信頼して自分の原稿を託した編集者が、ポオについて、アルコール中毒で、性的不能者であったという伝記を書き、ピューリタンの伝統が強いアメリカでポオは死後高く評価されるどころか忘れられ、ポオの全集は死後50年以上出版されることがなかった。

ポオの決定的な評価はボードレールによってなされることになったが、そのために日本での評価もボードレール経由であったのはポオにとっても日本の読者にとっても素晴らしいことだったと思う。しかしアメリカで無視された年月が長かったためにポオの伝記的な資料や住んだ家やアパートの保存などは大変少なく、同じ時代のホーソンやメルヴィルとは比べ物にならない。

ボルティモアのポオの住んだアパートは街外れの寂れた場所にあり、危険な場所だと行く前に注意されたくらいのスラム街で、アパートの建物の隣の建物はもう取り壊されていた。中に入ることはできなくて、外から眺めただけであったが、よくそれまで残っていたと感心したほどひどい状態の建物だった。ポオは晩年をニューヨークのフォーダムで過ごしたが、亡くなったのはボルティモアの路上で、叔母で義母のマライア  クレムの住んでいたボルティモアに来ていたようである。その町の路上で倒れているところを見つけられたという。マライア クレムはポオのたったひとりの親戚でその娘のヴァージニアと彼女が13歳のときに結婚している。ヴァージニアが貧困のうちに肺結核で1848年に亡くなってからポオは悲しみと苦しみで自己破壊の淵に立っている状況を叔母に手紙で訴えている。ポオ自身はその一年後の1849年に40歳で亡くなっている。

そのヴァージニアと暮らした家、「ポオの小屋」と呼ばれる家が  ニューヨークのフォーダムに残されていた。フォーダムはニューヨーク市ブロンクスのフォーダム大学のあるところだが、ポオの当時は本当に畑の広がる田舎の一地域だった。キリスト教の僧院があるような場所だから、周りには何もない、むしろ人里離れた場所だったはずである。それはホーソンやメルヴィルの住んだボストンの郊外と同じである。ポオの「コッテジ」と呼ばれるにふさわしい小さな小屋のような家で、中には家具らしいものはあまりなかった。大きな黒猫が病気のヴァージニアを温めるために布団の上に座っていた、と言われている。そのベッドも小さなものだった。私がそこを訪ねたのは1960年代半ばの冬で、ポオで論文を書き終えたころで、夫がフォーダム大学に勤めようかと考えている時だった。

ポオについて書いている間、私は彼の生活の実態や貧困の程度などについてあまり具体的に考えたことがなかった。文学雑誌の編集者として作品創作も旺盛に行っていたポオは、彼を尊敬して慕い、新しい雑誌のスポンサーになろうという年上の女性が一人ならずいたことも知られていたので、貧乏ではあっても、食べることに事欠く生活だったとは思っていなかったし、貧困と創作の関係は、ポオの作品の中にはほとんど手がかりになるようなものがなかったからでもあった。しかしポオのコテッジに私は強い感銘を受けた。そこには貧しさだけが、質素さではなく、むき出しに「表彰」されていたのである。

ポオが親も後ろ盾も、資産も、住む家も持てない人生を送り、いつも貧しかったことが、社会への定着の不可能さや、社会的な評価の低さに深く関係していたことは明らかで、ポオの特異な主人公たちの形成に大きな影響を与えていることも確かに思える。日本作家では林芙美子は貧困を売り物にしたとかえって意地悪く批判されたこともあったが、同じ貧しくても尾崎翠の作品には、貧困との関係よりも主人公たちの俗社会に根を下ろさない生き方が強い印象を与えている。意図的に隠遁生活を選んだ作家たちの、質素でも決して貧しいとは感じさせないソローの小屋や、鴨長明の方丈の家とは異なった作家の家がボルテイモアのスラムにあったのである。

かなり最近、そのフォーダムの小屋が、フォーダム大学のキャンパス拡張のために取り壊されたと新聞で読んでショックを受けた。しかし、現在は小屋は他の場所に移されて、美術館として公開もされている。写真を見ると家の中には色々な家具が置かれていて、ポオの生活が決して貧しくはなかったようにしつらえてある。貧困は確かに人間の尊厳を損なう屈辱でもあるが、芸術家や作家、詩人は決して金銭的に豊かで、社会的名誉を国家から認められているような生涯を送らない中で、後世に残り、時代も場所も超えて人の心に響く作品を残してきたのである。チャップリンの浮浪者はポオが原型だというが、hoboの代表格ポオの小屋が残っているのは、稀有のことなのであるだろう。家に象徴される家族を通しての社会的定着を持たなかった作家や詩人のアパートなどは保存されることはほとんどなかったのは当然なのである。しかし今は大勢の人たちが海外からも訪れる観光人気スポットである。

ホーソンとメルヴィルはポオと並んで文学想像力の持つ「黒い力」を作品に表彰した作家として、アメリカ文学批評家のハリー レヴィンに高く評価された作家である。ホーソンは生前は社会的評価が高かったとは言えないし、メルヴィルは長い間船員として海洋放浪をしていたなかから多くの作品を書いた作家でもある。しかし彼らの家が残されているのはエマーソンやソローという友人たちの社会的、文学的評価が生前から定着していたからであろう。その点、南部出身で、トランセンタリズムや東部の知識人への反感と批判を持っていたポオには、彼の作品をを評価する作家や批評家の友人にも、そして彼の生活を助ける編集者や友人にも恵まれていなかったのだ。ホーソンやメルヴィルが住んだボストンの郊外が、現在観光地としても高級住宅地としても高い資産価値を持つようになっていることに比べて見ても、アメリカにおけるポオの再評価がもう少し早く行われていたらよかったのにという思いを禁じられなかった。

ポオ評価は、しかし、20世紀後半に入ってからは高まるばかりである。アメリカよりもフランスや日本で最も早く高い評価を受け、その影響が大きく続いていることが、やっとアメリカの一般社会にもわかってきて、ボストンにもポオの銅像が立ったし、フォーダムの小屋は修復されてそこを訪れる観光客は年々増え続けているという。小屋の修復には日本人の著名な建築家が加わってもいる。

同じ感慨を私は尾崎翠についても持ったことがある。尾崎翠は現在ではその作品の評価は定着しているといえると思うが、それまでには長い年月があり、しかもその生涯は貧しく、晩年は無名のまま養老院で過ごしている。忘れられた作家の代表のような生涯を送ったのである。鳥取県が尾崎翠を顕彰し始めたことは嬉しいことだが、地域おこしとして作家や詩人、画家を行政が手がけることは、常に複雑な課題もはらんでいる。ポオの場合も、アルコール中毒や性的不能者、変態者であるという噂が彼の社会的認知を著しく歪めたように、作家や詩人、芸術家の性的特徴や俗社会の規範を逸脱したり、過剰な行動を行政がどのように理解するか、が課題となる。少しでも規定に外れたことを摘発し指導することを生業にする行政が、喜び推奨するような生き方をした人なら、芸術創作はしなかったのではないだろうかとさえ思ってしまう。ハリー レヴィンのいう文学の内包する「黒い力」を評価するには俗社会を超える想像力を必要とするのだ。

ポオが友人に恵まれなかったのも、ポオの生き方から当然のことでもあり、金持の女性からの援助を最終的には断ってしまう、その強情とも言える自負心に満ちた孤独への向かい合い方には、惹かれるものが多いが、尾崎翠には、彼女を尊敬し、貧しい時代をともに生きた林芙美子という友人がいた。鳥取に帰って創作をすっかりやめてしまった尾崎翠の消息を林芙美子は知らなかったことは事実だろうが、なぜ尾崎を探し出す努力や、文壇に連れ戻すだけではなく、せめて少しでも金銭的な援助ができなかったのかと、悔しいような、恨めしいような気持ちになる。長い晩年を沈黙し続けた尾崎翠への愛惜と無念と、同時に尊敬に満ちた気持ちを抱かずにはいられない。もし書き続けていたなら、どのような作品が生まれていただろうかと、優れた感性と想像力、才能を持った作家の沈黙に心を揺すぶられるのは私一人ではないだろう。  豊かになった現在の日本では新人作家を育てることがむしろ難しくなっているのは皮肉なことではあるが、同時に、創作へ駆り立てるもの、芸術家の想像力と感性の根源について多くを考えさせられるのである。

(了)


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