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水田宗子

幕間

崖の上の家:父なるものの凋落 第三章

2020/06/8

崖の上の家:父なるものの凋落

第三章

勝山の家

 

1942年の暮れに千葉県安房郡勝山町へ疎開した時は、まだ幼かったこともあって引越しの理由も何も不思議に思わずに母に連れられて新しい家へ移動したのだった。疎開という言葉も家ではあまり聞かなかった。勝山の家は龍島という小さな湾の浜辺の、松林の終わるところにある小さな家だった。八畳、六畳、そして、畳のある玄関の入り口の間、台所があり、引越してから風呂場を取り付けた。そこは父の友人で、山村聰の映画『蟹工船』の悪人船長の役を演じたこともある、俳優の平田三喜造さんが持っていた貸家だった。平田三喜造さんは勝山地域の網元で、顔役、「大いなる力」を持っているということだった。声の大きな、色黒でギョロ目の、体格のいい人で、カリスマ性に満ちているが、気さくで、母とも気が合ったらしい。よく私たちの面倒を見てくれたことを覚えている。毎朝魚を台所のバケツに投げ込んで行ってくれるので、食べ物には困らないと母はいつも言っていた。

父と平田さんがどういう友人関係なのかは今でもはっきりと知っているわけではないが、同じ房総の出身で、おそらく同い年だったと思うので、安房中学時代の友人だったかもしれない。父は学生時代はマルクスに心酔し、反戦運動に関わっていたので、小林多喜二の映画に出演した三喜造さんには、同窓の友人という以上の親しさを覚えていたのかもしれない。文学青年だったという父なので、演劇にも興味があり、網元の息子でありながら俳優をしているユニークな平田さんに特別な親しみを感じていたのだろう。戦後山村聰さんが、西片の家に何度か来られたことも覚えている。千田是也さんも来られたことがあった。父は戦後の演劇の復興にも貢献したのかもしれない。少なくとも国立劇場の建設に深く関係したのは確かである。

勝山町は、房総半島を上総と下総に分ける鋸山を超えて、次が保養地として名の知れた保田町、そして次が勝山町で、保田、勝山、岩井、富浦、那古船形、館山と続く南房総の東京湾に面した内房総海岸が半島の先へ続く一帯の海岸線に面している。漁業の町でもあるが、農業も盛んで、房総半島を内房から山越えして、鴨川市をはじめとする外房地域まで続く広い山間地域を後ろに背負った、いわば海と山のある、農業や花栽培も盛んな、温暖な地域の町だった。現在では保田、岩井と合併して鋸南町になっている。その名の通り、険しいノコギリの刃のような山形を持つ鋸山の南にある町であり、この山を隔てて、気候も、また、人の気質や文化も異なることがわかる。現在は鴨川へ続く嶺岡道が鈴蘭道として有名である。

鋸山の長いトンネルを越えると、海が拓けて、川端康成の『雪国』とは反対に、明るい別世界が目の前に開ける。しかし、戦時中はここを通る時には車窓にスクリーンを降ろされて、外は何も見えないようになった。内房線の汽車は鋸山以南にはトンネルがたくさんあって、煙と煤で目が痛くなるのが子供時代には苦手だった。

隣町の保田町は勝山町に比べて古くから別荘地として名が通っていたおしゃれな雰囲気のある町で、物理学者で歌人の石原純博士と歌人の原阿佐緒が世間を騒がせた大恋愛の末に愛の居を構えたところであった。石原純は、この事件で東北大学を辞めることになって、保田町の丘の上に瀟洒な家を建て、二人の世間を逃れた愛の住処としたのである。勝山町にはそのような有名なエピソードは残っていなかったらしいが、関東大震災の時にはいくつかの別荘が倒れて、その家人の救済や復興に土地の若者たちが大きな力を発揮したという。平田さんは別荘に来ていた東京のお嬢さんと結婚したと聞いていたので、勝山にも別荘があったのだし、別荘には原阿佐緒に劣らぬ優雅な令嬢がいたのだろう。

龍島は、その曲がった形が龍に似ているところからその名になったのか、あるいは、その静かな湾と浜辺の持つ雰囲気が、どこかこの世離れをしていて、乙姫様のいる幻の世界、夢の中の場所のような幻想をいだかせることからそう呼ばれてきたのかもしれない。事実その浜辺を浦島太郎が釣竿を肩に歩いていてもおかしくはないのんびりとして、賑わいのないあたりの景色なのだった。勝山漁港から離れた,保田との境に近い湾で、漁港ではなく、浜辺付近に住む漁師の人たちも、自分の小さな船は持っていても、本格的な漁は網元の傘下で行なっていた。船がつくほどの大きな桟橋は龍島の湾にはなかった。それだけに、水泳にはもってこいの浜辺で、人の少ない、まるで今で言えばプライベートビーチのように、小さな波が寄せては返す、静かで美しい海辺だった。近くに浮島という島がぽっかりと浮かんでいて、水泳が得意だった母やすぐに上手になった姉はそこまで遠泳していったものだったが、まだ幼かった私は、彼らが帰って来るのを浜辺で一人座って待っていた。竜島は隠れ里のような佇まいがあり、疎開生活の背景としてはふさわしい雰囲気に満ちていた。

松林すぐそばの家は、低い垣根はあっても、門構えと言えるようなものはなく、塀で囲まれた都会の家に住み慣れた私たちには、何となく開放的過ぎる感じがした。家の周りにはあまり民家がなかったので、心もとない感じがした。夜になると松林を通り抜ける風と、潮騒の音が、絶え間なく聞こえる。街灯の一つもない真っ暗な闇の夜の経験も新しく、疎開生活の第一印象を心に刻み付けることになった。それだけに水平線に大きな夕日が沈む浜辺の風景の輝きは驚きを与えたし、月夜の明るさにも感嘆した。お月様が大きいということも初めて知ったのだった。

雨を知ったのも勝山のこの家でだった。家が小さく、二間とも縁側を隔てて庭に開けていたから、雨が降ると雨足が庭の地面に落ちる様子を眺めることができた。土砂降りの雨の時には庭はたちまち水浸しになり、そして雨が止むといつも庭先の空に虹が出た。しかし最も強烈な経験は台風だった。房総半島は台風に見舞われることで知られているが、扉や窓に杭を打ち、テープを張って抑えても、暴風雨の威力は、その風の轟音と激しい雨で、都会では経験したことのない大事なのだった。勝山時代に何度台風を経験をしたことだろうか。敗戦の日の前も台風が通過し、あたり一面、家の軒下も水浸しになったのだった。

家の前には使われていない小さな土地があり、そこへは簡単な木戸がついているだけだったが、強盗やドロボーなどの心配は一切ないから、と平田三喜造さんは母を安心させたというし、その空き地の脇に、倉庫のような小さな二階建ての家があり、そこに平田さんの会社で働いている若い男性が住んでいたので、安心だと母も言っていた。その人は足に障害があり、平田さんの会社でも雑用係だったようだが、実に気のいい人で、ある日バケツいっぱいのカニを置いていき、大喜びをした母はすっかりお腹を壊してしまったことがあった。毎朝欠かさず魚を持ってきてくれるだけではなく、畑仕事も教えてくれたり、垣根の直しもしてくれた。夕方になると二階の窓枠に座って、ハーモニカをよく吹いていた。

私たち母と姉妹が、りっちゃんを連れてそこに住むようになってから、母は実に早く海辺の生活に対応し、生き生きとして、たくましさを感じさせるように見えた。水を得た魚というような、やることができたというような、熱意のようなものが感じられたのだ。子供たちを守らなければならないという気持も強かったのかもしれない。戦争は激しさを増していたが、まだ、敗戦が近づく気配は色濃く感じられなかった。風呂場のなかった引越し当初は、町の銭湯に行ったのが、珍しかったのか記憶に残っている。庭先での行水も始めてで実に楽しかった。その頃は都会でも風呂場のある家が全部ではなくて、隣の風呂を借りるという言い方も普通に使われていたのだった。

母が勝山での生活に苦情を言うのを聞いたことはなかった。母はその時は30歳になったばかりの頃だったと思う。東京で生まれ育った母には、何もかも不便な生活だったのではないかと思うが、反対に浜辺で泳いだりするのを楽しむ様子に新しい母の印象を持ったことを覚えている。青鼻を垂らし、髪にシラミを飼った子供達の間で私たちを育てることに神経を尖らせたはずであるが、それらの「ガキども」を寄せ付けないことなど全くなく、反対に、パンケーキなどを作って、いじめられないように、なつかせようとしたりした。東京にはよく帰って、少しづつ私たちの着物や人形を持ち帰り、塩や砂糖、シーツやノートや紙や鉛筆などを調達しては持って帰ってきた。私はそんな母の姿に影響されて、やがて裸足で駆け回り、勝山弁を話す浜っ子になった。大人たちに命じられて、よく土地の子供達と背負いかごを背負って松林に松の落ち葉を集めに行った。集めた松葉は焚き火にしたり、そのほかにも何かに使われたのだと思う。松ぼっくりもたくさん拾ったし、子供達はマツヤニも取っていた。松林は海岸線に沿ってずっと続いていて、子供達にとっては、大人たちの関与から離れた別世界だった。私たち家族は戦争が終わった翌年の1946年まで勝山の家に住んで、私はそこで小学校に入学した。

 

疎開生活では父は東京の家での私の生活でそうだったよりも、さらにもっと不在だった。父が帰って来ることは大変稀で、その時はいつも母や土地の知人たちと過ごす時間が貴重らしく、子供達は構いつけられることもなく、外に遊びに行かせられることが多かった。父は30歳半ばを過ぎた頃だったが、時代に押しつぶされる様子や、ビクビクしたところなど全くなく、また、都会的な雰囲気も持っていなかった。父は房総の温暖でおおらかな風土をその人間性に受け継いでいた人なのだった。父の人柄の醸し出すこの雰囲気は生涯変わることはなかったのである。

それに反して、群馬県の太田出身の母は、かかあ天下文化のDNAを祖母から受け継ぎ、何事にもめげず、負けん気で、立ち向かっていくたくましさに満ちていた。生き残りに長けた「肝っ玉おっか」といった雰囲気は外見やその容貌にはないが、実に敏捷で、勘も良く、優しさも備えていて、すぐに土地の人たちと親しみ、信頼されるようになった。

最初の頃だが、基地の若い兵隊さんたちがよく遊びに来たことがあった。母はその人たちに色々食事を作ってあげていたし、彼らの話を聞いてあげていた。そのことが評判になってはいけないと知人が父に忠告をしたそうだが、父はやがて戦場に出ていく若者たちへの母の慰めをむしろ大切に思っていたようだった。戦争が終焉に近づくにつれて、兵隊さんたちはぱったり来なくなった。

私は小学校に入るまでの短い日々をいつも母と一緒で、母の毎日の時間を私はべったりとくっついて共有する日常生活だった。初めての「普通」の幼年時代を経験したようなことだったのではないだろうか。姉はすぐに町の小学校に編入したが、私は幼稚園もなく、一人では遊ぶ場も知らない。第一言葉がよくわからないし、それを使えない。房総の浜辺地域の言葉は大変荒っぽかったのだった。仕方なしに初めのうちは日常生活の時間を母のそばで、母の後をついて回っていることで過ごしたのである。母との身体的な距離が最短に縮まった時代だった。しかし小学校に入るとその時間もすぐに変わっていった。

疎開生活は女だけで成り立った生活だった。家には父のいる部屋や場所はなく、母がここ家の主人だった。外との関係も、母は近所の主婦たちとすぐに仲良くなって、かなりのリーダーシップをとって子供達の病気や怪我の手当て、衛生上の注意などをしていた。母が最も強いお山の大将ぶりを発揮したのは、食糧難が急速に進んでいくに従って、山間部の農村へ買い出しに行くチームを編成した時だった。食物と交換する物資は、母が全て調達したし、それらは着物や靴など当時はほとんど田舎では手に入らなかったものだった。それに加えて、東京から買いだめしてきたり、持って帰ったりした塩や砂糖なども入っていたので、買い出しはかなりいい成果をあげたのだと思う。大きな背負い籠を背負って、数人で山の村へ朝早く出かけて行く母の姿はなんとも頼もしかった。帰って来れば、米やいも、牛乳、鶏肉、野菜などを含む食材を色々な人たちに分配するのも母だった。庭にゴザを敷いて、母は買い出しに行かなかった近所の人たちにも、食料品を分けた。中でも鶏肉は貴重な戦利品で、母は包丁で幾人分かにさばいて分けていた。そんな時の母は猿むらのボスの風格があった。

父が選挙に出た時に、最も得票数の多かったのは、父の生まれた鴨川市を抜いて勝山だったというのが、よく母が自慢したことだったが、事実、そのことは、その時代に発揮した母のリーダーとしての資質と能力の高さを表しているのだと思う。母は色白で、当時の女性としては背が高く、背筋がまっすぐに伸びた活動的な女性だった。女学校時代はテニスやバスケット、ピンポンの選手だった体育系の女性で、走ることや水泳はとにかく達者だった。親が進める父との結婚も、初めは大変嫌がっていたという話を母の姉の和歌子叔母からよく聞いたのだが、一度決まってからは、愚痴ったり、いじいじすることなどなく、失業中の父の下宿へお弁当を作って差し入れに行ったそうである。その当時、友人の下宿に宿狩りをしていた父は、数人の安房出身の友人たちと共同生活をしていたそうである。肩書きや資産などにこだわらなかった若い母の性格は、その行動力とともに、体育系の性格を生まれながらに持っていたからかもしれない。

むしろ父の方が文学青年で、私が読んだことのある婚約時代に二人が交わした手紙では、父は倉田百三の『出家とその弟子』について書いしたりている。母の女学校時代のエピソードは、のちに卒業校の第八高女(八潮高校)の友人たちと俳句の会などを作って交流を温めたこともあって、私たちはいくつかの話を聞くことができた。掃除の時に窓ガラスを拭きながら、「カチューシャかわいや、別れの辛さ」と大きな声で歌って、先生に厳しく叱られた話、「不思議なマント」や「流浪の民」などの劇でいつも主役を演じた話など、小さい時に聞いた母が唄う歌を思い出してなるほどと思ったものである。母にとっても女学校時代は、最も自由で夢の多い時代だったのかもしれない。それも短い期間で、すぐに大恐慌や軍事政権の出現で、女性たちが自由を奪われた時代がやってきたのだが、母が少女時代に養った明るく、物怖じしない行動力に満ちた性格は、その抑圧の時代を生き抜いて、戦後は本領を発揮することになったように思う。

意気揚々とした物々交換の買い出しも、次第に困難になっていった。食べ物はほとんど手に入らなくなり、少量の芋や大根ばかりを持ち帰って来るようになった。魚だけが命綱だったが、さすがの網元も非常時に漁業はうまく成り立たず、私たちは毎朝バケツに入れてくれていた魚の代わりに、自分たちで、岩に腰掛けて魚釣りをした。それでも私たちの釣り糸に引っかかる魚に事欠かなかったほど、房総の海は豊かだったのである。家の前の空き地に麦畑を作った。庭にサツマイモを植えた。自然に生えている木苺やグミの実、アケビ、桑の実など食べられるものは皆食べた。柿や栗、桃、みかん、夏みかん、西瓜、まくわ瓜、びわなどは何らかの形で手に入ったが、それもだんだんと難しくなり、渋柿と夏みかんだけがそこいらの農家の庭にも実をたわわに実らせていた。今でも私は夏みかんが大好物である。

1945年敗戦の年になると食糧難は最も厳しくなって、私たちの食事にはすいとんが頻繁に出るようになった。その頃には、母方の祖父母が、母の兄嫁の実家の山梨県の上野原から勝山の私たちと一緒に住むようになっていて、房総の温暖な気候と、とにかく何らかの食べ物があることを「恵まれている」と口癖のように言っていた。祖父母が敗戦後も館山の家で生涯を送るようになったのも、房総の土地が気に入ったこともあったのだと思う。

勝山時代は母の存在が大きな比重を占める時代だったが、祖父母の存在が次第に大きな影響を及ぼすようになった時でもあった。私たちそれまでは祖父母と一緒に住む経験がなかったが、勝山疎開時代から東京へ帰る1948年まで、祖父母と日常を過ごす生活が続いたのである。

祖父町田均は俳人で文人タイプの役人だったが、イタリヤやフランスなどの欧州、台湾や中国などに勤務した経験から、かなりのハイカラであったそうである。メロンやマンゴなどの果物が祖父母の家にはいつもあったのは、祖父のハイカラ時代の産物だったのかもしれない。その頃は逓信省を退職していて、毎日俳句を作り、私たちに俳句や百人一首を教えてくれた。新聞紙をかるたサイズに切り、そこに一枚づつ上の句と下の句を筆で書いてくれた。祖父は達筆であったこともあってか、私にとっては新聞紙の薄い紙と本物のカルタの違いは知る由もなかったので、この新聞紙カルタが私の百人一首の世界への導入路となったのである。祖母は茶道の教師をしていたので、勝山で私たちに手ほどきを初めてくれた。私はそのどちらにも夢中になり、中でも百人一首は大人の県大会出場者を負かすほど腕を上げて大いに褒めそやされたものだった。俳句を作ることが長く日常のことになったのはこの疎開時代に祖父母と一緒に暮らしたお陰だった。逓信省は運輸省と国土交通省、外務省とも仕事が総合的に一つだった戦前の省庁で、祖父はとにかく西洋も中国も知っている、いわば当時のグローバル人だった。母は名を清子(せいこ)というが、祖父が中国清時代に赴任している時に生まれたのでそう名付けられたという。祖父は無口で、口髭を生やした面長の風貌が、細身の着流し風の着物姿と相まって、いつも謎めいていた。私たちとはあまり話をしなかったが、俳句だけはよく教えてくれたのである。

祖父の実家は大田の呑龍寺の住職で、代々の墓がその寺にはあった。私たち姉妹は幼い頃呑龍坊主にさせられた。祖母は丹後家という武士の家柄の娘で、祖父とは反対に自分の意見をはっきりという女性だった。丹後の局の末裔だろうと、からかわれたほど、物怖じしない人だった。結婚前は小学校の先生をしていたのだから、教養豊かで、暗唱していた平家物語を語ってくれたりした。敗戦直後上野原の道で進駐軍のジープを呼び止め、「ウエノハラステーションダウン」とゆく先を言って乗せてもらったという逸話が残っている。好奇心が強くてなんでも聞きたがり、質問をして、知恵熱が出るぞ、と父にからかわれていた。

母方の若い叔父たちがよくやってきて私たちの遊び相手になってくれたのも楽しい思い出になっている。母の長兄基(しげき)叔父は日本郵船に勤めていて、話が実に上手な人だったので、お話をせがむのが、私たちの楽しみだった。母の下の弟直(裕康)叔父は通産省に勤め始めたところだったが、独身の身軽さでしばしば勝山を訪ねてきた。この叔父は絵が上手で、また美声の持ち主で、歌舞伎の人物を紙に書いて切り取り、紙人形で演じて見せてくれた。二人の叔父はともに俳句をよくし、祖父母の馬込の家では毎月句会を開いていたので、勝山でも彼らが来ると祖父母や母は、私たちも末席に加えて句会をした。特選をとったいくつかの句は今でも私の自慢の句である。その中の一つ、「大人まで乗り出して食う初秋刀魚」は、姉の「割り箸の先を焦がして秋刀魚焼く」とともに特選となったのである。

母の弟の直叔父はやがてお見合いをして結婚することになった。お見合い写真を私も見せてもらったが、美しい人で感心した。裕福な医者の娘でピアノが上手だということだった。その人が何かで入院したというので、母は私たち姉妹を連れて東京までお見舞いに行った。母にとっても初めてその人に会う機会だったのではないだろうか。私たちは着ていくような洋服を一枚も持っていなかったが、母は買いだめして持って来たシーツを裁断して、二人に洋服を作ってくれた。スカートはウエストをくりぬいただけの代物だったが、8枚はぎフレヤーカートのようにヒラヒラゴワゴワした、真っ白な洋服になった。叔母はその時の、お揃いのシーツ服を着た私たち姉妹のことを、結婚してからもよく話していた。

温暖で開放的、「かかあが強い」と言われるほど女性たちが活発で、人情の厚い風土の房総での暮らしは決して苦しくはなかったように覚えているが、それが非常事態下の異常な暮らしであることが、次第に日々鋭く感じられるようになっていった。本土への空襲が激しくなっていったのである。庭先には防空壕を掘ってあって、空襲警報が鳴るたびに私たちは枕元に用意しておく防空頭巾を被って、急いで逃げ込む日が毎日になっていった。房総は米軍機が東京を空襲する道にあたるので、その行き帰りに私たちの頭上を通って行ったのである。時には残った爆弾を帰り道で落としていくことがあり、機上掃射(機上射撃)という襲撃、つまり、地上で動いているものすれすれに近づいて爆撃機から狙い撃ちをする襲撃が、私たちを震え上がらせた。空襲警報が鳴ると小学生は家に帰るように命じられるのだが、私たちの家は勝山小学校からかなり離れていたので、私は姉に手を引かれて、駅の向こう側の学校から、線路を越えて、長い田んぼの一本道を懸命に走って帰った。道の終わる田んぼの果てに母が待っていてくれる。ある時は途中で私たちが狙われたと思い、田んぼの畦道に転げこんで身を伏せたこともあった。

勝山駅の近くで汽車が機上掃射に会い、多くの死者が出たことがあった。母はその時、母親をなくした赤ん坊を預かってしばらく育てたこともあった。東京が空襲に遭うと、東京湾を超えて東京付近の空が真っ赤になる。恐ろしいが興奮に満ちたような、遠くの景色を松林の端から見たことがしばしばあった。母にとっては東京の家へ帰ることが危険になっていったことで、帰ってくるまで私たちは不安に怯えていたのである。それでもお内裏様を持って帰ってきてくれた時には大変嬉しかった。それだけは買い出しにも使わなかったので、以来母は、孫たちのためにずっと飾っていた。着物は母のものも私たちのものもすっかりなくなった。

東京の田端の家にも庭に大きな防空壕を掘ってあったが、私は入ったことがなかった。しかし、勝山の家の庭先に作られた小さな防空壕へは毎晩のように入り、その狭い暗闇の空間での時間は、勝山時代の特別な経験で、長く心の風景となっている。家族の他に幾人かが入れるほどの小さな穴倉だった。爆撃に耐えられるような代物ではなかったが、危険な時をやり過ごす、隠れている、という意識がこの暗闇の時間を満たした。小児喘息持ちの姉のひゅうひゅうという息遣い、狭い場所に身体を丸めて座り、外を遮断し、内に閉じこもる意識が全身を覆ううちに寝てしまっていた。警報が解除される頃には、朝になっていた時もあるし、母に抱かれて家の布団に戻されていることもあった。警報が解除されるというのは、明るい外部に出ることでもあり、心地よい安心ないつもの布団に目覚めることでもあった。

姉の発作がひどい時もあった。母は姉の体にからしの湿布をするのだが、そのキツイ匂いが穴ぐらの空気の匂いだった。姉は小学校の4年生ごろだったからまだ幼かったが、息をするのが苦しいと喘ぐ姉をそばで見るのは非常事態の意識をさらに強くした。それは命に関わることなのだと。私が内にこもる暗闇の時間を何を考えて過ごしたかは覚えていないが、姉のそばで自分も息苦しくなり、目を固く閉じていたのだった。

勝山小学校に入った時のことは今でも忘れることができない思い出となっている。手元に残っている写真には、広いレースの襟のついた黒い天鵞絨の洋服を着て、担任の先生と防空頭巾を被った友達たちと写っている私がいる。初めての日、私が校庭に入ると、多くの子供たちに囲まれてしまい、私は泣き出したということである。それ以来、学校のそばまで行くと、急に尻込みをして校門から入りたがらなくなったということである。姉を手こずらせる毎日で、先生が出てきてくれてやっと教室へ入ることができたのだという。

しかしそんなことはすぐになくなって、私は土地の子供と同じように軍事下の国民小学校教育を受け、一方では裸足で駆け回り、自分のことを「おれ」と呼び、髪にはシラミも住まわせるようになった。敗戦後、米軍の兵隊さんたちに皆並ばされてDDTを髪に散布されたのである。りっちゃんが茨城の田舎から奉公に着た時に、トラホームを患っていたことに懲りている母は、目だけは決して手で触ってはいけないと厳しく言ったが、そのほかはダメ出しは何もなく、私は他の子供達と変わらない浜っ子にすぐになっていった。その代わりにたくさんの遊び友達ができた。泣き虫だった私は、元気で明るい性格だと言われるようになり、成績も良く、通信簿に「将来が嘱望される」と先生が書いてくれたのを母が自慢にしていて、その小学校一年生の通信簿を大切にとっておいていた。留学から帰ってそれを見た時には忘れていた母の疎開時代の姿を思い出して、涙ぐんだのだった。

小学校時代は何もわからない一年生から三年生の中ばまでを勝山小学校で過ごしたが、その時の先生方の印象は鮮明な記憶となっている。一年生の初めての担任の先生は、「風呂屋の石井の娘」で、実に聡明で美しい人だった。その後は校長先生の娘さんの高橋美恵子先生で、この先生が通信簿に将来が嘱望されると書いてくれた先生で、私は随分と励まされて、勉強が得意になった。三年の時の小宮先生は、戦後先生を辞められた後は東京で母の会社に勤めるようになり、それからはよくお会いするようになったが、私はいつまでも小学生扱いをされた。

戦前の田舎町であっても、学校の先生方はどの人も皆聡明で、知的で、物知りで、町の人たちに信頼され、一目おかれていたのである。彼女たちは、たとえば『二十四の瞳』など、よく物語や映画で見る先生のイメージそのままで、明治以後の日本の文化形成には欠かせない存在であったことがわかる。小学校の先生にはその頃から女性が多かった。知的な女性にとって開かれていた少ない知的な職業だったのである。農業や家内工業、商家を除けば、キャリアーとしての職業に就く女性は少なく、女性が働ける職は、看護師、バスの車掌や電話の交換手、デパートの売り子など大変限られていたのである。その中で、学校の教師は、子供達にとっても、村や町の知的、道徳的意見番としても質の高い人たちを明治以来生み出してきたのだと思う。

小学校なので軍事教練などはなく、軍人の姿も構内には見えない、比較的のんびりとした学校生活ではあってが、毎朝列を作って天皇陛下の写真に礼をしてから教室に入ることや、教室にも天皇陛下の写真があり、天皇のことが語られる時には背筋を伸ばして、居を正さなければならなかったことなどが鮮明な記憶に残っている。私はすっかり土地に馴染んで疎開してきたという意識を一切持たないで居たが、東京から勝山に疎開してくる子供が意外と少なかったのは、房総が東京に近くてあまり安全だと思われていなかったからだと思う。その数少ない疎開者の中の一人が、のちに東京女子大学の同期生となったことで再会し、それ以来同じ分野の研究者としてのキャリアを持つようになり、交友関係が続いている。これも戦争による奇縁だと言えるだろう。

すぐに仲の良い遊び友達がたくさんできた。中でも近くの旅館の子供の松本孝ちゃん(孝子さん)、薬屋の池田みどりちゃんとは毎日、毎日飽きることなく下校後も遊んだ。宮下初江ちゃんはのちに学校の先生になり、字の見事に美しい大変知的な女性になったが、その頃は小さくて色白なのに、負けずに裸足で駆け回って遊んだ。孝ちゃんは旅館を継いで立派な女将になったし、みどりちゃんは賢い子だと母がよく言っていたが、薬剤師になって薬局を継いだ。戦後の経済の復活の中で、そして、日本の国際的な発展の中で、敗戦国日本の田舎町のはなたれ小僧だった私たちも皆なんとか格好のつく先進国の女性になっていったのである。1990年代には何度か小学校の同窓会に呼んでもらった。父の選挙や、城西国際大学が東金にできたこともあって、長い留学時代の空白はあっても、疎開時代の友人たちとの交流が、時間を隔ててもまた復活できたことは本当に幸運でもあり、嬉しいことだった。東京では戦災で人々は住んでいたところを離れなければならず、皆バラバラになった。地方の町でも戦後は都会に移住する人も多く、子供時代の友達の消息が全部わかるということはなかったのである。

房総には海軍や陸軍の基地があり、内房線の上総湊以南の先は機密地帯だった。疎開した最初の頃は房総の基地に駐屯している若い兵隊さんが、街中を歩いている姿を見かけることもあった。我が家へ来る若い兵隊さんの中には、母に個人的な相談をしたり、小説の話などをしに来る人もいたということである。戦況は危機的になっていくばかりの頃であったが、戦地の前線とは異なって、国内の基地にいた兵隊さんには、まだ微かな余裕があったのだと思う。しかしそれもすぐになくなった。兵隊さんは皆戦地に駆り出されていったのだ。戦地の悲惨な状況を知るのは、戦後になってからだったのである。

房総地帯はまた、艦砲射撃の的地でもあった。中でも太平洋に面する外房一帯は、警戒を強めていて、父の生地である鴨川市も危ないという噂が流れていた。房総はこのように決して常識的には安全な場所、疎開先でなかったが、千葉県の東京に近い地域は空襲を受けたが、房総は空襲の被害はほとんどなく終わったのである。

私たちの疎開中の父の東京での生活は不便そのものだったと思うが、その頃は早稲田の建築科に在学中の父の長兄の長男、私たちの従兄(水田利根郎)が、父と一緒に田端に住んでいて、一人ということはなかった。妻子は安全な場所に置き、自分は働くという夫のジェンダー役割を父は忠実に実行していたわけだが、3月10日の東京大空襲で渡辺町の家が全焼してしまうと、大森の母の実家に一時滞在し、そこも5月24日の大空襲で焼け出されたあとは、東京で住む場所がなくなってしまったのである。

三月十日の大空襲の直後、父の会社の人が勝山に訪ねてきた。私たちはちょうど防空壕に入っている時だった。彼は大変申しわけなさそうに、実は大変なことになりまして、と口ごもりながら切り出し、私たちはてっきり父の身に何かがあったのだと思った。家が焼けたと聞いて、母はなんだとばかりにホッとして笑い出したし、私たちもそれにつられて安心し笑い出した。家が消滅したと聞いて笑ったのは、おそらく私たちだけではないだろうか。従兄は36発の焼夷弾が落とされた家から命からがら逃げ出して、毛布一枚とたまたま近くにあった蓄音機を持って、大森の祖父母の家まで歩いて逃げて行ったということである。手に大火傷を負ったが、しばらくして勝山へ大きな蓄音機を持って現れた。この蓄音機は敗戦後の欠乏生活で大いに楽しみを与えてくれたのである。水田家の長男の長男に当たるこの従兄は大学卒業後は建築家として活躍をして長い生涯を送った。

疎開生活は私の幼年後期と言える時期に当たるが、物ごとが分かっているようで、何もわからない無邪気な時代だった。戦争の怖さを知っていたのか、それほど感じなかったのか、今から思うと不思議な気がする。しかしこの頃に深層意識が出来つつあったことも確かなのだと思う。記憶のことの中には確かな心の風景があるからだ。疎開中の経験はその中の原風景でもある。父と母の姿も、時とともに影のように輪郭だけに薄れていくと同時に、鮮明な、固定されたイメージとしてその風景に確かん位置を占めている。それはある意味で、私の家族の原風景でもあった。この風景は幼い私の心の風景でもあり、それはそれからの私の心の原風景なのであった。

敗戦の直前父が帰ってきて「負けた」と母に話したそうである。その日は私は夕方まで浜辺で姉と下駄隠しをして遊んでいた。父が帰ってきたから家に帰りなさいと呼びに来られたが、隠した下駄が見つからないままだった。姉が先に帰って、私は下駄を諦めて片方は裸足で、一人遅れて家に帰った。松林を抜けると、大きな真っ赤な月が昇っていた。

異常なこと、何か大変なことが起こったのだ、という感じが心を捉えて、私は畏敬の念に駆られたことをおぼえている。家では数人の人たちが父や母と話し込んでいた。父はそのまま東京へ帰らなかった。それからの数日、は色々な人が入れ替わり立ち替わり家に来て、そして大雨になり、洪水が起こって勝山川が氾濫した。

その8月には母のすぐ下の弟の正叔父が亡くなった。この叔父は東北大学を出て銀行かどこかに勤めていたが、学生時代には父から本を借りては箱だけを棚に残して、あとは全部本屋へ売ってしまった、というほどの豪傑で、父とは気があうらしかった。父を東京鋼板という会社設立へ誘った人は、この叔父の結婚した人の養父だったのである。叔父は戦争中に腸結核を患い、終戦日前後に亡くなった。どさくさの最中で、誰も見舞いも、別れもせず、そして叔父の死も知らず、松子さんと言う叔母はずっと叔父の体を抱いていたということを聞いた。母はその知らせを後で聞いて、文字通り泣き崩れたし、私も、この叔母と叔父の非常時下の愛の話はそれからもずっと心を占めるようになった。

8月15日は洪水の後で、私はいつもの遊び友達と水かさの増した川の土手を歩いて海まで行った記憶がある。玉音放送の後で、家中も町中もシーンとしていた。海も濁っていて、私たちはなぜか怖くなり、無口になってそれぞれの家に帰った。庭には洪水で水浸しになったものもの、布団やシーツなどいつもの洗濯物干しでは見慣れない様々なものが庭いっぱいに干されていて、その中には私の着物もあった。せっかく買い出しから逃れたのに、水に濡れて着られなくなってしまったと母は悔しがっていた。その後の数日は子供達は全く構われることがなく過ぎたが、急に母から九重の伯母の家に行くと言われて、荷物を持って父母とともに汽車に乗った。基地が近いので、兵隊たちが暴動を起こすのではないかと父が心配したということらしかった。

それからの何週間かを私たちは九重の伯母の大きな家で過ごした。その頃伯父は長い間結核を患った後で亡くなっていたのである。伯母の家には父の母、私の祖母が曽呂村から移って一緒に住んでいた。伯母の家には陸軍の将校たちが泊まっていて、暴動が起きるような時にはそこが安全だろうということらしかった。それが当たっていたかどうかは疑問である。私の記憶にある将校たちは毎晩お酒に酔って、サーベルを振り回す人もいたからである。

すぐに父母は私たちを置いて、勝山に帰って行き、私と姉は伯母の世話になってしばらく暮らすようになった。伯母の家は、大層に立派な造りの屋敷で、玄関が五つあった。第一玄関は立派な日本庭園に開ける広い接客用の部屋やそれに続く日本間がある家の正式な入り口で滅多に使われなかった。第二玄関は、洋館への入り口であった。二階建ての洋館で、一階は客間、二階は寝室と書斎があった。玄関の前には大きなバナナの木があり、当時バナナの木は富裕層の流行りだったそうである。洋風の庭ができていて、バラの花や、花の咲く木が大きく聳えていた。第三玄関は一般の来客を迎える入り口で、客間と仏壇が置かれている仏間があった。その次には家の者や親しい人などが出入りする玄関があり、囲炉裏のある板敷きの居間とその奥にコタツのある畳の部屋が見えた。そこが祖母の居場所だった。暖炉のある板の間からは石床の台所と広い土間につながっていて、土間へ入る玄関がこれもかなりの趣を持って作られていた。その隣には、収納庫や貯蔵庫のような建物の部分があり、色々な人たちや小作人たちが、作業をしたり、物を運んだりして出入りをしていた。

家の裏側は日本庭園のある客間の部分、洋館の部分、そして家族のいる場所などが皆繋がっていて、寝室となる畳の部屋がいくつも並んでいた。私たちはその一間に寝起きをしていたのだが、それらをつないで押入れがあり、布団や座布団などがぎっしり入っていた。広い屋根裏部屋があり、そこには食器や書画骨董品が置かれていた。

母屋の脇には牛や馬のいる小屋があり、作業場となっていて、野菜や穀物がゴザの上に広げられることが多かった。家の裏には裏山があり、しいたけが栽培されていたり、山菜や薪をとったりしていたらしかった。大きな地主の家だったので、小作人たちが絶えず出入りをしていて、戦争中で人手がなくなったと伯母は嘆いていたが、農作業が中断されることはなかったようである。比較的のんびりとした戦時下の生活だったことが感じられたと、母は言っていた。この家の凋落はまさに敗戦とともに始まったのである。農地改革で広い農地は没収されて、裏山と内房線の線路を隔てた畑だけがかろうじて残ったのである。

幼い私には伯母の家での暮らしは冒険に満ちたもので、下男をしていた人が、よく山へ連れていってくれた。椎茸の収穫を手伝ったり、牛の世話や乳搾りを手伝わせてくれたりした。それは役に立たない遊びの域を出ないものだったが、私にとってはこれまで経験したことのない冒険ばかりで、毎日のほとんどすべての時間を外で過ごした。

九重のてい伯母は水田家の長女で、安房女子学校ではその頃も語り継がれるほどの優秀な才女だったということである。ずっと後になって私は城西国際大学の学生募集で安房女子高等学校を訪ねたことがあったが、その時も、ずいぶん前の話なのに伯母のことを話してくださった先生がいらした。安房女子高等学校はその後、安房高校と合併して男女共学の高等学校になった。伯母は房総地方では大きな地主の半沢家に嫁いだが、夫は結核を患って、あまり地主としての仕事や小作の面倒などを見ることができなかったという。伯母は代わりに半沢家の財政、農業、林業などの経営、小作人との契約やその世話、そして村の世話役など、すべてを伯父に代わって受け持ち、慕われる半沢家を作り上げたということである。父の大学の授業料はこの伯母が引き受けてくれたということで、父は生涯感謝していた。亡くなったことを知った朝の句があり、父の自伝『蕗のとう』には、その日大蔵大臣として予算を決めるために、すぐに駆けつけられなかったことが書かれている。

それだけの女傑であったから、伯母はなかなか厳しいところのある人で、母は小姑に当たるこの伯母に、嫁としてばかりでなく、頭脳明晰な、やり手の年長女性として、一目置いていた。伯母のところで厄介になっていた日々は、小学校の高学年で物事がわかる姉の方は気難しい伯母に気を使うことが多かったらしく、私の経験とはかなり異なる生活で、肩身の狭い思いもしたそうである。姉は小児喘息をずっと患っていたので、温度の違いや高い湿度に敏感で、一旦発作が起こると大変だった。背中にカラシを塗った布を貼ったり、蒸気を吸わせたり、と喘息は辛い病気で、姉の発作が起きないかと、母はいつも心配していた。母のいない間、姉は発作が起こりそうになると一人で色々抑える工夫をしていたらしく、寒さが防げない、典型的な日本家屋造りの大きな屋敷での生活は決して快適ではなかったようである。

伯母は戦後も長く生きて、目が見えなくなった祖母が1961年に亡くなるまで水田家の本家が九重に移ったかのように、親戚が訪ねてくる実家のような役割を果たしていた。祖母が亡くなった時、私は父とともに九重に別れを告げに行った。その年、私はアメリカのイエール大学への留学が決まっていたので、その別れもあった。暑い日で、薄い布だけがかけられた祖母の小さい白い体が印象に残り、今でもその風景はいつでも蘇ってくる。

やがて母が迎えに来て私たちは元の勝山の家に戻った。学校も始まったが、以前とは随分と雰囲気が違っていて、先生方を始め誰もが気が抜けたように生徒に厳しく当たることなどはなかった。そのうちにいつ東京へ帰るのかと周りの人たちに聞かれるようになり、自分の身にも変化が起こるのだという意識を持つこともあった。戦争中はなんとなく私には存在感が薄かった父の印象も変わり、母もそうだが、共にどこか張り切っている雰囲気を漂わせていた。その頃すでに父は政界に出ることを決めていたようで、母にとっては突然のことで、随分と反対もし、言い争いもしたとのことである。

私は小学三年生になっていたので、少しは状況の劇的な変化を感じたり、わかったような気持ちになったこともあったが、危機感や緊張感はあまりなかった。ごく自然にその翌年には、東京ではなく、近くの館山市に引っ越しをしたのである。館山は近くなので、勝山を離れることが友達と別れることだという実感はなかった。勝山時代は実に生々しい生活感に満ちた、実感の濃い生活だったという思いが残っている。何事もありのままで、裸足で、毎日を暮らしたような、そして土地の子になりきっていた時代だった。空襲警報は怖かったが、東京で何が起きていたかや敗戦のことなどよりも、母が不在のときに、ふと自分は一人でいるという実感を持ったことを覚えている。疎開時代は、子供でもどこか捨て身の生活だったのだと思う。

疎開中は一緒に来たりっちゃんが手伝いをしていたが、ある時彼女は家の前の倉庫のような家に住んでいる男に夜這いに入られて、妊娠をした。夜中に目をさますと母に叱られて泣いている彼女の姿があったのを覚えている。この家に忍び入る強盗もドロボーもいないと母を安心させた三喜造さんも、さすがに夜這いの習慣について母に警告することはなかったのだろう。母はすっかり驚いて、慌ててしまっていた。いくら女傑の素質が現れ始めた母にしても、厳格な家庭で育った東京育ちで女学校出の母には、夜這いは想像外の出来事だったのだ。

確かに、塀で囲まれていないこの家はどこからでも入ることができたのだ。母はあのハーモニカ演奏は、りつちゃんへのセレナーデだったのだと、気がつかなかったことを悔しがった。彼はりっちゃんを早くから狙っていたのだ。りっちゃんにとっては案外素敵な経験だったのかもしれない。

その男性はあまり生活能力のない人だったらしく、彼女は結婚して以来、生活の苦労が絶えることなく、その小さな家で何人もの子供を生みながら、貧乏生活に耐えていかなければならなかった。彼女は相変わらず無口のまま、いつも子供をおぶって、母や近くの家で手伝いなどをしていた。

初めての子供は双子で、しかも一人が逆子の大変な難産だったらしいが、赤ん坊たちをとり上げたのは母だった。母が疲れ切って涙を流している姿が、心に強く残っている。赤ちゃんの一人にはしばらく足に軽い障害が残り、母はそれを大変気に病んでいた。生涯彼女の家族の世話をする決意をしたのも、彼女の運命を変えるきっかけが我が家に来たことであるという意識を持っていたのではないだろうか。疎開先の親も親戚もいない知らない土地へ連れてこられたからだ。りつちゃんは茨城の出身だったから、千葉県で生涯を送ることになったのも、私たちに疎開先へ連れてこられたからだ。その後りっちゃんはまた双子をうみ、そのほかに幾人もの子供を産んで、文字通り貧乏人の子沢山で、幸せななのか、大変なのか、そのどちらもまぜこぜの、休む暇のない人生だったと思う。夫の人は最後まで定職につけないままだったらしいが、優しい人だったし、子供達は皆親孝行なことで評判だっという。母親の世話も障害のある姉の世話も皆よくしたと聞いている。りっちゃんの恋物語は多くのストリーと入り込んだ筋構成を持つ豊かな物語だったのに違いない。

私は留学直前の夏、九重で亡くなった祖母に別れをしたのち、勝山で汽車を降りで、りっちゃんに会いにいった。彼女はあいかわらず無口で、子供を背負っていた。それが私の勝山と幼年期への別れでもあり、日本を離れて新たな人生への出発でもあった。幼児期から、りっちゃんは世話をしてもらう日常生活の時間の中心にいたのいだが、私にとっての代理母ではなかった。彼女にお話を読んでもらった記憶は残っていないし、叱られたり、物事を教えてもらったりした思い出もない。しかし彼女はいつも私たちと一緒にいて、私の幼児期の記憶の風景にはいつも彼女がいたのである。りっちゃんはいつまでも私の心の中では15歳のままだったし、茨城から田端の家に来た頃の姿のままだった。

一方姉の乳母だった和子さんーーかずちゃんは東京の家では行儀見習いのような感じで姉の世話係をしていたが、父の会社で働いていたサラリーマンと結婚した。すぐ夫が招聘されて戦死してしまい、幼い息子を抱えて、勝山の家ヘ来ていた。彼女もまた稀有な人生を歩むことになったのである。

家の近所に船大工をしている蛭田さんという家族がいて、そこの奥さんが母のところへよく来ていた。掠れた声の持ち主で、彼女の声が聞こえると空襲警報が鳴ったとよく皆にからかわれたものだった。おっとりした人で、子供が4人いたが、皆利発な子供たちで、私たちの遊び相手でもあり、母が大変かわいがっていた。買い出し隊の一番のお供は彼女だった。船大工の家は龍島海岸の浜辺に突き出した工場の裏がわで、戦争が激しくなるにつれて仕事は全くなくなっていたという。

その船大工の奥さんが戦後大流行した赤痢で一番下の幼い子供とともに突然亡くなってしまったのである。母はりっちゃんを使っては子供達の面倒を見ていたが、かずちゃんが舟大工の後妻になる話が持ち上がったらしい、というよりは母がそれを考えたのだろうと思う。かずちゃんは女学校を出た女性で、都会暮らしもしていた人で、船大工氏は子持ちで歳も離れていたから、必ずしも良縁とは言えない話だったはずである。しかしかずちゃんはお嫁に行く事を決めたのだった。それは父親の顔を知らない息子の裕一郎の行く末を考えてのことも大きな要因だったのかもしれない。とにかく彼女はその船大工の家に住んで、残された彼の子供たちの世話をする決意をしたのである。彼女がいい加減な気持ちでそれを決めたのではないことは、すぐに子供達が彼女になつき、信頼して、母親として尊敬もするようになったことでも明らかである。ただ一つ、彼女の連れ子は成長するにしたがって、勝山の船大工の家庭をどうしても自分の本来の生きる場ではないと感じ続けたようだった。彼は義兄姉たちに親しむこともなく、義理の父にも母親にも心を開くことがなかったという。小説家志望で、引きこもりがちな青年になって、かずちゃんの心配は止むことがなかった。

船大工の長男は画家志望で、やがて東京でそれなりに生計を立てるようになったし、長女の澄子さんは洋服の会社に勤めて確かな技術を身につけた職人となった。洋裁師は戦後の花形職業だった。私たちより年下の三番目の光子さんは、母親と妹と一緒に赤痢にかかったが、一人だけ治って、しばらくは後遺症に苦しんでいた。かずちゃんはそんな家族の面倒を親身になってみ続けたのである。子供達が彼女を慕うのは当然だったのだ。光子さんは千葉や東京で色々な仕事をしていたが、やがて勝山に帰り、母親の仕事を助けてその片腕になっていく。

かずちゃんは戦後の復興が始まると、船大工の工場を壊して、民宿を始めようと考えたのだった。母も心配しながらも賛成して、資金を出してあげたという。その方向転換は大成功で、浜辺の家は民宿には最適だったから、毎夏お客が絶えることはないようになった。

房総の海岸は湘南のように高級なリゾート感はないが、穏やかな海と、富士山が東京湾を超えて見える美しい景色、そして龍島海岸の沖には浮島という島があって、やがて子供のいる家族向けのリゾたトとしても人気が出るようになっていったのである。かずちゃんは数々の工夫をして、ビジネスウーマンとしての才能を発揮するようになった。船大工の夫は、民宿経営のマネジャーとなったが、本来優しい人柄で、かずちゃんは幸せそうであった。二人の間に子供もできたし、かずちゃんに育てられた船大工の末の娘はかずちゃんの民宿の手伝いを引き受けて大いに活躍するようになった。

何年も経って、かずちゃんが亡くなってから、私はその娘さんの切り盛りする民宿を訪れた。そこで見たのはカズちゃんと船大工の夫が、西欧旅行をした時の写真がずらっと展示されている光景だった。船大工氏は実におしゃれな格好をしていて私は内心びっくりした。歳が離れていることを可哀想だと母は心配していたのが嘘のように、実にかっこいいハンチング帽姿でかずちゃんとイタリアや南フランスやナイアガラの滝を楽しんでいるのだ。妻や子を亡くして、仕事もなく打ちひしがれていた姿とは全く違ったおしゃれな姿に、かずちゃんは本当に真摯に結婚生活を送り、皆に生きがいを与えて幸せにしたのだとつくづく感動したのだった。観光業も時代に適した職業で、船大工氏にとってもやり甲斐のある良い転職だったのだ。小説家志望の息子の心配が解消したかどうかは知らないが、芥川賞の候補になったことがあるというのだから、小説を書き続けたのだと思う。

戦争は多くの人の運命を狂わせた。私の幼年期の勝山時代という疎開時代は、非常時下の母娘の巣篭もりの時代であったが、それは戦後の文字通りの断絶と転換を用意した転換期の巣篭もり時代だったのである。

敗戦は日本の男たちにとっては屈辱であっただろう。戦争に反対した人にとっても、同じだったと思う。疎開時代は女たちの時代だった。銃後の母の役割を真剣に背負った女性たちももちろん多かったが、戦時中はとにかく生き延びる、生き残ることに女性たちは全ての力を発揮したのだ。男性不在の生活で女性たちは母親として自分の子供だけではない村や町の子供や家族のために、リーダーシップも発揮したのである。戦後の参政権を得た女性たちの活躍箱の時代に準備されたと言ってもいいのだろう。社会全般からの巣篭もりが、女性には長かったが、疎開という、男性、中でも家父長が不在の緊急時での巣篭もりは、家庭というアナグラ、家族という防空壕を出た後の外部の女性の活躍を可能にする転換期の準備期間ともなったのだ。

しかし、女性にとっての転換期も、決して順調ではなかった。敗戦後、街頭に立つ傷痍軍人の惨めな、哀れな姿に象徴される戦争の加担者であり犠牲者となった日本男性の姿は、やがて日本のめざましい復興とともに忘れられて行った。戦後の世界で、復員兵、植民地からの引き揚げ者などの帰還者、そして、巣篭もりしていた者たちも含めて、男性は短期間でめざましい社会復帰をしていった。それに比べて、女性の社会「復帰」は、社会参加、男女平等、性別役割分担を含むほとんどあらゆる仕事、教育、家庭の分野で、進展するどころか、むしろ核家族の中への封じ込めという新たな状況の生まれる中で、後退して行ったのである。せっかく男女同権、男女平等を明記した新しい憲法を持ちながら、20世紀の後半男女平等社会の遅れは世界的にも課題にされて、1999年の男女共同参画社会法の制定までの戦後55年間は女性にとっては性差格差の社会的受難の時代は続いたのであった。

 


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