ページトップ

水田宗子

幕間

崖の上の家: 第五章:東片町時代

2020/06/18

崖の上の家:第五章:東片町時代

 

 

 

衆議院選挙当選後、父母は東京に住むようになった。私たち姉妹は祖父母とともに館山にそのまま住んで、私は小学4年生に、姉は中学2年生になって、館山市のそれぞれの学校へ行った。父母は本郷の東大前の東片町に家を借りて、父はそこから国会へ出かけたのである。3月10日の大空襲で田端の家は全焼したし、5月24日の大森地域の空襲で祖父母の家も焼けてしまったので、東京に住むには家を借りなければならなかった。1946年、東京は復興もまだ始まらず、焼け野原のままで、空襲を免れた地域で借りることのできる家は大変少なかった。国会議員の宿舎などもなく、父は何としても東京に住む場所を必要としたのである。特に台東区や上野、田端付近は3月10日の東京大空襲ですっかり焼け野原となっていた。一晩で10万人が死ぬと言う凄まじい空襲の爪痕がまだ生々しく残っている地域でもあった。国会に近い場所に住むとなるとやはり土地勘のある文京区あたりの焼け残った場所を選んだのだと思う。東片町の家の一階の二間を借りるのがやっとだったのだろう。二階には女性が一人住んでいた。

母は私たちを東京に連れてきては銀座通りと有楽町の中間あたりにあったフルーツパーラーでアイスクリームやプリンを食べさせてくれたが、借り家には泊まっていくスペースがなく、日帰りで館山へ帰るのがいつもだった。両国駅まで母が送ってきて、そこから席が取れないこともあった内房線に乗って姉と二人で館山へ帰るのだった。その頃の汽車はものすごい混み方だった。

有楽町界隈は戦災を免れた盛り場で、有楽町駅のガード下には焼き鳥屋やカストリなど酒を飲ませる屋台がひしめき合っていたし、その頃ストリップショーをしていた日劇のある数寄屋橋から日比谷公園までの通りも屋台がびっしり立ち並んでいた。銀座四丁目の服部時計店あたりには進駐軍のためのPXがあって、銀座通りには女性連れのアメリカ兵が目立っていた。その銀座通りも新橋の方へ向かっては闇市が立っていたし、反対方向の日本橋から三越百貨店を通り、神田や須田町、岩本町、そして本郷通りに入る秋葉原近くまで、道の両側に屋台がびっしり出ていて、白い服の傷痍軍人がそこ、ここに立っていた。

須田町から淡路町、神田神保町、そして皇居のお堀端を経て靖国神社を通り、新宿へと続く靖国通りは空襲から逃れた地域だったが、中でも本屋街の神保町はアメリカ軍の空襲マップから意図的に削除された保護地域だったとのことである。日本美術研究者のラングドン・ワーナー(Langdon Warner)博士が皇居、上野博物館、神田神保町、御茶ノ水などを保護するように必死でアメリカ政府に働きかけたと言うことである。彼はのちにアメリカで初めての日本美術学科をハーバード大学に設立したことで知られている。

 

旧加賀藩屋敷跡に立つ東京大学は、須田町、岩本町、淡路町、駿河台、小川町、神保町と続く低地を走る大通りから、これも道幅の広い大きな坂を登って、御茶ノ水で外堀を超えた先に広がる本郷台地にあり、その広い台地一帯は戦災に会わないままだった。東京大学の裏門からは上野池の端、根津、谷中、千駄木、日暮里から隅田川へ急な坂を下りていき、その途中で上野博物館、芸大、西洋美術館などのある上野の山がまた狭い台地の一画をなしていた。本郷台地は隅田川と皇居の外堀までの間に位置する、いわば、江戸の街外れ、江戸の行政地域の境に当たる地域に位置していて、その中央を走る本郷通りが、日本橋から昭和通りで秋葉原まで来て、そこから神田明神、湯島聖堂、本郷三丁目から東大赤門、正門、農学部(旧一校)、白山上、団子坂上から駒込、王子へと続いていく江戸一番に広い台地である。

本郷台地一帯はこのように加賀100万石屋敷を中心として、大名屋敷、上野や、湯島聖堂の学問所、谷中の寺町、湯島神社や根津神社、神田明神などに囲まれた坂の多い街だった。政治、商業地域からは離れた教育や宗教の区域と言っていい。戦災に会わなかったので、戦前の東京の雰囲気、そしてさらに江戸の風情が残っている街並みが続いていた。

東片町は現在東京大学と農学部のキャンパスを隔てて隅田川へと続く言問通りと本郷通りが交差する弥生町を少し過ぎて、本郷通りから分かれて中仙道へ続く旧白山通り(現在の国道17号線)と別れて、駒込へと続く本郷通りの間に位置する狭い地域で、本郷通りに面した追分町から細い道を入った一帯だった。追分町と言うからおそらくは加賀藩の馬の世話役係たちが住んだ一画なのだと思っていたが、そうではなく、日光へ続く御成街道の本郷追分宿のあった場所で、栃木へと続く道にはいくつかの追分宿があるが、その江戸での最初の馬休め、足休めの宿場だったそうである。それほど、本郷は江戸の街外れ、町街外への第一歩の場所なのだったのだ。

私たちが住み始めた頃には草野心平さんが「呑ん兵衛」というおでん屋を出していたので、追分町は作家や詩人たちには馴染みのある場所だったらしい。草野心平さんは、ずっと後になって父が創立した城西大学の学歌の作詞をしてくれた人なので、東片町時代を思い出すと、何か縁があったのだと感じたものである。その頃父は将来大学を作るなどとは考えもしなかったであろうし、私たちもまた、飲み屋とも詩人とも関わりがなかった。1964年オリンピックも終わって日本の国際社会への復帰が目に見えてくる頃創立された城西大学の学歌に草野新平さんがいいと父が言ったということを知って、あの短い東片町暮らしの中で、父は草野心平さんの詩についても心を打たれていたのだと思った。父もまた文学青年として青春時代を過ごしたのだろう。

東片町は現在向ヶ丘という地名一帯の一部になっていて、東片町と言う名前は残っていないが、西片町の対になる地域としてつけられた地名であるだろう。片町と言う呼び方は、例えば飯倉片町などのように江戸時代にはよく使われた地名だったのだと思う。東片町は西片町とは違ってとにかく狭い地域で、そのほとんどが「しもた家」というのが適当な、門がなく道に面して玄関のある庶民の住居が屋根を並べてたち続く町だった。道からすぐ家に入るのは、時代劇で見る長屋のような感じがした。家は玄関に1畳ほどの畳敷きの間があり、その先に六畳と八畳ほどの部屋があり、短い廊下を隔てて台所があった。八畳間の外には狭い廊下とその先に濡れ縁があって、そこから少し下の家の中がよく見えた。お習字の先生の家だったので、墨の匂いが漂ってきて、それが気持ちよいと母が言っていた。

その家に天津の伯父に勧められて中国の同文書院で勉強をしていた父の末弟が引き揚げてきたのだった。田端の家で私に英語を教えてくれた結伯父の弟で、五一伯父といった。水田家の男の子たちは皆顔つきが似ていて、体の大きさだけが、下に行くに従って小柄になっていったが、皆父に似た柔和な面ざしだった。祖母にも、祖父にも似ていて、皆一目で兄弟だと感じる雰囲気を持っていた。五一伯父は六男なのでそう名付けられたと聞いた。父の長兄は一、次兄は二輔、三男の父は三喜男、次弟は四方太、その下が結、そして五一伯父だった。私たちはまだ館山に住んでいたので、この五一伯父とは一緒に住むことがなかったが、その後千葉県の高等学校の教師になった伯父は、歯に布着せず物事をはっきりと言う、しかも大変辛口の批評家で、私は高校時代にこの伯父から率直な中国体験を聞いたことが楽しい思い出となっている。伯父はかなりの苦学生だったらしく、上海で浮かれていた日本人たちには大変厳しいことを言った。

この狭い家に私たち姉妹は1948年から父母と一緒に住むことになった。私が雙葉学園の五年生に編入試験で受かったことや、姉の高等学校が始まることなどが、その理由だったと思うが、とにかく父母は私たちを祖父母に預けっぱなしではいけないと考えたに違いない。その家はなんとも狭かったが、記憶に鮮明に残っているのは、どのように私たちが寝たり、食事をしたりして暮らしたかではなく、国会から帰って来た父が茶の間で横になっている姿や、良くたずねてきた父と同郷に東大生とその友人と碁を打ったり、時には麻雀をしている姿である。

その頃の父は国会からすぐに家に帰って来て、夕食をよく家でとっていたが、体の大きな父が、浴衣や丹前姿で茶の間に横になると、それだけで茶の間のスペースは占領されてしまった。そういうときはいつもただ黙っていたが、決して暗い顔を見せることはなかった。しかし、その疲れ様は明らかで、母から占領軍との打ち合わせがあったことを聞かされることもあった。私は1、2度見たことのある日比谷の占領軍指令本部の入り口に立つ拳銃を持った背の高い米兵の姿を思い出し、そこから中へ入っていく父の姿を心に思い描いたりした。

同郷の友人などが来てお酒に酔った時には、父は実に元気よく喋り、本当に楽しそうであったが、母はそういうときも父が大変な経験をして来たときだからと、酔っ払っても少しも文句を言わなかった。水田家の人たちは皆大酒飲みだが、母の実家の人たちは少しもお酒を飲まないので、母も初めは驚いたと言っていた。その母も選挙で初めてどぶろくを飲まされ、そのときのひどい苦しみ方はそばで見ていた私も今でもよく覚えている。祖母が心配して、とにかくお酒を飲んだことなどなかったのだからと、背中をさすったり、汗を拭いてあげたりと大騒ぎだったのである。その母も次第に腕が上がって、晩年は大した酒豪であった。

戦争責任やレッド・パージred purgeで先輩のいない国会運営と党の仕事で、父は第一回当選後早くから様々な、言わば要職についていたようで、私たちが一緒に住み始めた頃は党の政調副会長や大蔵省の政務次官にもなっていた。父がその頃どのような仕事を手がけたかは詳しくは知らないが、占領下で税制度を手がけたことは自伝でも言っている。いわゆるドッジラインに関わる新たな税制の設定である。教育法や義務教育から大学までの教育制度に関する仕事も早くからしたようで、義務教育の国庫負担、ララ物資を使っての給食制度の設定などは父の仕事だったと、のちに文部省の方達から伺った。ずっと後になって私が城西大学の理事になってから、大学の仕事で文科省を訪ねたとき、体育関係部署の局長さんが、その当時の給食制度担当を務めた、給食制度の設定は素晴らしい出来事で、やりがいのある仕事だったと、話してくださったことも、なんとなく誇らしい気持ちとなり、記憶に刻まれている。その局長さんの初めての仕事だったというが、若い父にとっても同じだったのではないだろうか。

東片町の家での父の姿の思い出には、同郷の若い東大生が、友人を連れてよく遊びに来たときのことが多くある。二人は母と麻雀をしたり、父がいれば碁を打ったりして、食事もして、かなりの時間を家で過ごした。ちょうど大学を卒業する年に当たっていたらしいが、戦争と敗戦によって、人生の見通しが大きく変わったことへの不安を抱えていたのだと思う。彼らは私にいろいろなことを教えてくれた。まずゲーテについて、青年の悩みについて、そして、旅について語り、人間が精神的に成長するためには孤独な旅が必要なのだと言った。ヘルマン・ヘッセの東洋への旅についても話してくれたのである。法律を勉強した二人は、かなりの文学青年だったらしい。そのために私はゲーテはともかく、ヘッセという作家の名前を覚えた。

戦前は、東大出は学士さまと言われて、就職に困るということはなかっただろう。敗戦直後だから誰にとっても厳しい就職難なのはと当たり前だったが、約束されていると思っていた将来が霧消してしまうような不安にかられるのは特に学士には多かったのだろう。彼らの中には苦学生も多く、それだけに苦労したことへの、その若い時期への、どこか裏切りのような悔しい思いをしたことだろう。戦後新制大学ができて大学への進学者が増えてからでも、1960年代の終わりごろまで、男子の大学進学率は12%前後だったのだのだから、戦前の帝国大学生は一握りのエリートだったのである。

やがて彼らは卒業して、同郷の相川さんは内閣法務局に、そして彼の友人の松山出身の松沢さんは特許庁へ就職して、それからの長い20世紀後半の日本の復興と発展の時期を、国家公務員として生涯地道なキャリアを全うした。就職してからも二人はよく家に来ていて、それは二人とも結婚して家族を持つまで続いた。広くなった西片町の家では、訪問者がいかに親しい人でも、子供たちがずっと一緒にいることはないが、部屋数のない借り屋だったからこそ、他にいる場所がなくて、ずっと一緒に話を聞くことができたのだ。

私は小学校の6年生の終わりまで東片町の家に住んだが、その一年の間の家での生活は鮮明な印象となって残っている。玄関の前の細い道を隔てたお向かいの家族との交流や、少し離れた近所に王子製紙に勤めていた家族が住んでいた。そこには私たちより少し年上の「お姉ちゃま」がいて、その人の家へ幾度か遊びに行ったことを思い出す。広い庭があり、「お姉ちゃま」はお母様といつも一緒で、とても華やかな、見たこともないような化粧品や香水ビンの並ぶ鏡台があった、お姉さんは私の髪を結ってくれてリボンもつけてくれた。考えてみると母には鏡台もなく、化粧品も多く持っていなかった。戦中も戦後もたくましく生きた母は、結構おしゃれだったにもかかわらず、化粧品や香水、リボンなどのある女性らしい自分の部屋を持ったことはなく、私たち姉妹も母の化粧品をこっそり使うなどといういたずら遊びを経験したことはなかった。

二階を借りていた中年の女性に関しては大きな謎だった。私は父母がこの家を借りた経緯などは聞いていないし、ましてやその女性について誰からも話を聞いたことはなかったが、母は意図的にその女性の話に触れないでいたような感じがした。だいたいあまり顔を合わすことがなく、外出もほとんどしない人だったように思う。玄関からすぐ二階への階段が続くのだから、外出の時には顔を一度だけ見たことがあるように思うが、そのとき大変質素な感じの、身だしなみの良さそうな人なことに驚いたことを覚えている。すでにずいぶん歳を取っているのか、若いのかよくわらないほどに、印象のきつくない物静かな人で、その着物姿からも、着こなしや、趣味などからも、一見してわかるものはなかったように思う。あまり私たちに挨拶もしなかったように思う。彼女を訪ねてくる人もなかった。私たちとは全くの没交渉で、私は二階に上がって見たいと思ったことがあったが、呼んでくれることなどはなかった。二階が開けば少しは広くなるのにとも思ったことがあったが、私たちの方が早く家を出ることになった。

東片町時代を思い出すたびに私は彼女のことを考えた。母に聞いても何も答えてくれなかったし、事実誰も彼女のことは知らないままだったようだし、また皆忘れてしまっていた。それは何も隠れた真実など持たない、偶然にその家の二階を借りていた単なる借り人だっただけだろうし、その人について知らなければならないような、特別のこともなかったのだろう。しかし私にとっては東片町時代の謎であり続けた。

東片町は焼け残った場所で、どの家も、家並みも、路地も全てが、戦前の、樋口一葉気配がする、少々しがない、庶民生活の痕跡と雰囲気を色濃く残している界隈だった。1967年アメリカから帰って私は東片町の家を見に行ったが、全く変わらないままだった。こぎれいになっていて、東京都のど真ん中の住宅地になっていたのだから、貧しい近所でないことは明らかだが、マンションができているわけでも、新しい建材屋スタイルの家が建っているわけでもなかった。路地は相変わらず狭く、王子製紙の家もそのままの門構えであった。庭の下の方のお習字の先生は、母の話ではだいぶ前に亡くなったということだった。路地に足を踏み入れた途端、私は真っ先に、あの女性はどうしたのだろうか、今でもどこかにいるのだろうか、と考えた。あんなにひっそりと一人暮らしを敗戦の時代にしていた女性とは、事情があるはずなのに、何も語られないのは、謎があるからでなければならない、と。

東片町に行ったことを話した時に、居合わせた父の知人から、その女性が外国人だったことを知らされた。中国から来たばかりの時に戦争が始まって、そのまま日本にい続けたのだそうである。私が、田端、勝山、そして館山時代を生きている時に、その人は異国の戦争中の日本に暮らしていたのだ。そして、戦後になって東片町の家に偶然に同じ屋根の下に一時住んだのである。私は日中戦争勃発の年に生まれたことを、中国の友人や留学生たちに会うたびに考えたが、あの和服姿の女性が、中国人だったことに驚愕して、やはり彼女は謎だったのだと心を打たれた。

そのことを教えてくれたのは、父の同郷の人で、東片町時代に家の手伝いをしてくれていた女性を紹介してくれた人だった。兄と弟そっくりの兄弟で、いつも父のそばに来ていたのだが、父が大学を卒業して失業していた時代に一緒に下宿をしていたそうである。大人の話を聞くのが好きだった私は、その気取らない、房州弁のおじさんが来ると、いつもそばに行っては話を聞いていたのである。そのお手伝いの女性は同じように同郷の人で、大変涼しげな顔立ちの美しい人だった。家には泊まる部屋がなかったので、どこかに間借りをして、家に来てくれていたが、西片の家に移ってからも、家には一緒に住まず、そのまま通って来てくれていた。その女性を、年下の建設材会社の社長が見初めて、やがて結婚することになった。その若者は硬い筋肉が腕まくりした袖からみえ、今風の感じの、大変素敵な人だと私は思った。その小倉さんというおじさんは、とにかく父のことは自分のことにように思っていて、どんな小さなことでも母の頼みも、なんでもしてくれたそうである。二階の女性が中国人であったことを母が知っていたのかどうかわからないが、そのことが話題にならなかったことは、やはり何か謎めいている気がする。話をしあう中になったら、どちらも気まずい思いをしていたのかもしれない。

東片町の生活で新しかったのは何と言っても、初めての東京での学校生活である雙葉での経験だった。疎開から帰っての雙葉での勉学生活は、千葉の学校での経験とは何もかも違っていたが、私がそのことに違和感を感じ始めるきっかけになったことが一つだけあった。その頃父は大蔵省政務次官をしていたが、大蔵省は四谷の堀を超えた場所に仮の省舎を構えていた。雙葉は堀の内側ですぐ近くだった。ある日先生から呼び出されて、父が雙葉のお御堂(礼拝堂)に花を届けて来たという。そして以後はそのようなことを決してしないように伝えなさいときつく言い渡された。私が、お御堂にはお花が飾られるのだからいいのではないかと聞き返したところ、「蛙の子は蛙ですね」と言われたのである。私はその意味がわからなかったが、家に帰ってその話をすると、花はどなたからかいただいた花籠だということ、そして「蛙の子は蛙だ」というのは「褒めたんだよ」と父から言われた。しかし母の怒りようは少々大げさで、「だから雙葉は嫌いだ」と言い、初めて母がどこか雙葉に違和感を持っていることに気づかされたのだった。家と学校が同じ場所ではないことはもう少し大きくなれば自然とわかることなのだが、私は自分の感じている環境の違いが何か深刻なことのように思ったのだった。

母は私が編入試験に受かった時に、校長先生から呼び出されて、お子さんは雙葉の校風に合わないから、家庭でも教育に協力してほしいと言われたそうである。面接で私は試験はどうでしたかと聞かれて、「良い問題だと思いました」と答えたところ、校長先生が、なぜ良い問題でしたかと聞き返した。ララ物資についての質問は戦後の復興政策の一つで、給食として自分たちの身近な問題でもあるし、法隆寺の火災については、戦争で負けた日本の文化遺産について考えるいい問題だと思いました、と答えたところ、ずいぶんお利口ですね、と校長様が言われた。呼び出しの時に母は、その面接でのやり取りのことを言われて、ずいぶんこだわっていたようだと父に話していた。「試験はどうでしたか」という質問に、難しかったと答えていれば無事だったのかもしれない。父が笑っていたので、私はなんとも思わなかったが、母はそれからもずいぶん長い間この話を幾度も持ち出しては怒っていた。そしてそれは長い間家のエピソードとなった。

言葉つかいも悪く、人見知りをしない、生意気な、政治家の娘、という「俗物」のイメージを、会ったばかりの子供に抱いたのだから、母にとっても雙葉とのなんとも違和感のある出だしとなったのは当たり前だった。母は自分の家庭や教育の仕方が批判されたように思ったのだろう。

東片町の家での暮らしは、スキンシップの濃密な暮らしで、個室はおろか、一人になる場所も時間もない暮らしだった。それだけに、父と母がいつもそば近くにいることを感じ、大人と子供が隔てられることのない、食事も会話も、客も家族もいつもひとまとめに顔を付き合わせる時間を持った暮らしだった。電話もテレビもインターネットもないし、個室もない。顔をあわせる人だけが情報を交換できる人、コミュニケーションする人で、愛情や友情を確かめ合う人たちだった。私の幼児期の「地獄耳」はますます冴え、父から「のり兵衛」は「ベイビー博士」だとからかわれた。

父は散歩をするのが好きで、言問通りから東大の裏門へ前を通って上野子上広小路へ出る道を歩く散歩に私をよくつれていた。のちには落語を聞きにつれて行かれた。何か話をしてくれるわけではなく、ただ一緒にくっついていただけだったが、それは西片町に引っ越してからは次第に少なくなった経験だった。父はお説教をすることが決してない人だったし、何かを教えるということもしなかった。自慢話も一切しないから、父の口から自分がしたことを聞くことはほとんどなかった。周りの人たちを叱ったり、非難することは全くなく、何かを批評することもしなかった。その父が、参った、参った、と言っていた出来事があった。

それは父の若い秘書が持ち逃げをした時である。それは子供心にも驚きでその人の顔も名前も忘れることなく記憶に刻印されている。彼は政治家としての父の最初の個人秘書だったのではないだろうか。何れにしても東片町の家には毎朝、風呂敷包みを抱えて出勤してきていたのである。彼が何をしたかは詳しくは知らないが、お金に関係することであったことは事実で、おそらくは母が託したか何かのお金を持って何処かへ行ってしまったのだろうと思う。そのお金は支払いか何かに必要なおだったらしく、母はその後始末に大変だった様子は今でもはっきりと記憶している。父や母には余裕のお金などなかったのだ。

当時の国会議員の給与はどのくらいだったのだろうか。新憲法では歳費と呼ばれる国会議員の給与は「相当額」とされている。国家公務員の最高額より低くするという定めもあるようだが、敗戦直後のことだから、そのあとにできる様々な法令が整備されてはいなかったと思う。国会議員の給与は無償で、財産のあるものが議員になった旧憲法の印象がまだ人々の心を捉えていた時代である。父には財産がなかったから、家計が火の車だったことは目に見えていて、それはずっと後まで続いたのである。

母のブローチ盗難事件もあった。あの頃は空き巣やドロボーに入られることは日本中どこでも横行していた。万引き、置き引き、すり、などもいっぱいで、強盗や殺人などの重大な事件よりも、お金に困っての盗みが日常に起こっていたのである。東片町の家では、ドロボーに入られたことはないと思っていたが、実は一度だけ母のブローチが盗まれたのでさる。母はそれをてっきりどこかに落としたと思っていた。子供達も動員されて、電車の停留場から家までに道を下を向いて探して歩いた。それは銀細工だったらしく、確かに母はそ入れをよそ行きにしていたし、その他には何も持っていなかったのである。ところがずいぶんあとになって、警察の人がドロボーを捕まえたら、東片町近所にドロボーに入って荒らしていたことがわかり、盗品の中に母のブローチが入っていたというのである。

西片町では何度か盗難に見舞われたが、すぐに入れそうな東片町の家には、ドロボーは訪れなかったと思っていたのだった。何もなさそうな家だし、人がいっぱいで誰かが目を覚ましそうだったのだろうと。しかし、ただ一つ母のブローチが取られたことも、他にめぼしいものがなかったと家での笑い話となった。

東片町時代は父が国会議員だということが特別に現れない生活だった。秘書も家にいないし、選挙区からの来客もほとんどなかった。それは家族のいる場所で、父の威厳はどこにも発揮されない場だった。父はいつも浴衣姿で、今の40代のかっこいい男性からは想像もできない、おじさん風で、いつも自分に構わない、そして人にも構わず、飄々としていた。テレビもなく、ラジオでも、父の国会での様子や省庁や党での仕事ぶりなどは全く知らなかったし、私たちにはいつも変わらない同じ父だった。占領軍本部から疲れて帰って来た父と、いつもありのままにニコニコしている父とのギャップも、やがて思い出の一コマだけになっっていった。

 

1950年、短い東片町での生活も、西片町への引越しで終わりを告げることになった。それは私が中学生になる時で、私の幼児―子供時代も終わりを告げることになったのである。敗戦後と言われる時代も終わりがすぐそこまで来ていた。

 

 

 

 

 

 


SNSアカウント