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水田宗子

幕間

サダキチ ハートマンの家

2020/03/5

小屋といえば、サダキチハートマンの晩年の家はまさに小屋というにふさわしい砂漠の中の家だった。カリフォルニア州のリヴァーサイドに住むようになったのは1971年だが、そこはロスから90マイルばかり東へ、内陸に入り、そこからずっと続く砂漠の入口のような場所にある街で、昔はハリウッド関係の人たちのリゾートだったという。ニクソン大統領が結婚式をあげたというミッションが街の真ん中にあり、ハリウッドの映画をまず最初に上演したという大きな映画館も残っている。戦後はリヴァーサイドからさらに砂漠の奥深く入っていったパーム スプリングが、フランク シナトラや副大統領のフォードが別荘を構えた本格的リゾートとして繁栄し、リヴァーサイドは昔の面影を残しながらも、ロスの郊外でもなく、リゾート地でもない、カリフォルニア大学のリヴァーサイド校のある大学街として、人口15万人の独立した地方都市となっている。
リヴァーサイド校にはジョージ ノックスという英文学者がいて、サダキチハートマンのアーカイブを図書館に作ろうとしている時期に、私はリヴァーサイドにニューヨークから移り住むことになった。なぜ彼がハートマンに興味を持ったのかは、リヴァーサイド近辺に住む少年小説を書いていた作家ハリー ロートンがいて、彼から、ハートマンがメランゴ インデイアン居住区に晩年なくなるまで住んでいたこと、そしてそこに彼の原稿や生涯の仕事の記録や資料をなどが入ったつづらが残っている、その整理と調査をしてくれないかと頼まれたからだという。
サダキチ ハートマンと聞いて、私は大変驚いて、それまで心のなかに燻っていたリヴァーサイドへ移住することへの逡巡がすっかりなくなり、この地の果てのような、砂漠へ隣接する街へ来たのは何か運命的なことだったような気がしたのを覚えている。私は東京女子大で、太田三郎先生から比較文学を学び、サダキチハートマンについて書かれた著書を読んでいたのである。比較文学は当時は国別に分類されていた文学研究分野の亜流と見られていて、文学漫遊だと相手にされないことも多かったと、後に島田謹也先生からよく伺っていた。大学院に都立大学を選んだ理由の一つには島田先生が比較文学を講義していられたからであった。大学では英文学専攻だった私にとって、アメリカ文学も、日本文学も一緒に扱うことができる比較文学は新しい批評の可能性を秘めていると感じたのである。
私は早速ノックス先生にお会いし、サダキチ ハートマンの住んでいたと言う家を見に連れていっていただいた。メランゴリザベーションはその頃はアメリカ中で一番の荒地という評判の居住区だった。同じインデイアンのために与えられた土地でも温泉が出たパームスプリングスなどは経済的にも潤っている場所であり、その他にも石油が出たりして、豊かになったところもある。しかしこのリザーベンションはその頃は文字通りのバッドランドであり、オアシスもなく、とにかく水が出なかったというのだから、経済的にも、また生活の上でも、大変な貧困地帯であった。実際、そこには小さな、コレクションも少ないミュージアムがあるだけで、観光客も来なかったに違いない。私がリヴァーサイドを離れた1980年代の半ばまでは、アルコール中毒や病気がはびこる問題地域であった。ちなみに現在はカジノが出来て、大変繁栄しているということで、それもまた驚きでもあった。
そのリザーベーションの中の小さな小屋がサダキチの終生の住処だった。彼が小屋の前に立っている写真が残っているが、彼は晩年そこでインデイアンの女性と暮らして、子供ももうけていたのである。ハートマンは明治の始まる前年に長崎で、ドイツの商人のハートマンとお貞(定?)という女性の間に次男として生まれた。二歳にもならない頃にお貞がなくなり、父親のハートマンは子供達を連れてドイツのハンバーグに帰国し、そこでドイツ女性と結婚した。ハートマン兄弟は厳格なドイツの家庭で育てられたのである。サダキチが十七歳ぐらいの頃、彼はアメリカに渡り、以来アメリカで暮らし続けた。ハートマンが知られるようになるのは、能のような寸劇(キリスト、仏陀、孔子についての劇で、不謹慎だというかどで上演禁止となり、警察で調べらたことで名が知られた)を書いて演出したり、香を嗅ぐ会として香水の嗅ぎ比べの会を催すいわばエンターテインメント芸能人としてである。日本のことを知らず、また幼い頃日本を出てから生涯日本の地を踏むことはなかったが、日本人としてのアイデンティティを強く前面に出して、日本を「武器」にオリエンタリズム時代のアメリカで芸術家のエンターテインメント人として人に認められるようになった。彼はまた芭蕉の俳句の翻訳をして、俳句を流行させたことでも知られている。短歌も書いていて、その原稿は出版され、残っている。メランゴの家のつづらには芭蕉やほかの俳人の作品の{英訳」が残っていたが、翻訳とはいえない、内容も異なる彼自身の創作短詩という方が適切である。
そのようなどこかまがい物扱いをされがちな芸能人がニューヨークの芸能界を生き抜いて行くことはできないのは当然で、ハートマンはアメリカ各地を放浪して、やがて砂漠を超え、ハリウッドまで流れ着いたのだという。ハリウッドではしかし映画俳優としても、特異なタレントとしても評判がよく、ダグラス フェアーバンクスの「バグダッドの盗賊」では盗賊の頭の役で、今でも人々の印象に強く残っていると思う。チャップリンに、フィンガーダンスを教えたのも彼だということである。彼は背が高く日本人らしい端正さとドイツ的な彫りの深さを併せ持つ風貌で、映画人だけでではなく、一般の人にも人気者であったということである。
つづらには定吉が描いた多くのパステル画が残っていたということである。ノックス教授はそれらを購入したということなので、リヴァーサイド校にはそのコレクションがあるに違いない。サダキチの娘さんのウイステリア ハートマン リントンさんは当時カリフォルニア大学リヴァーサイド校の写真家として勤めていて、ちょうど退職してアリゾナに移ると言っていた時だった。私も彼女にお会いしてハートマンのパステル画を3枚譲ってもらった。いいのは皆ノックス先生が持って行ったと言っていたが、私はそれら三枚の絵が気に入っている。綱渡りをするピエロや砂漠の山の絵で、パステルの青が実に美しい。世紀末のヨーロッパのサーカスやミュージックホールで演じるピエロの華奢な姿がいわれのない深い郷愁をそそる。
ポオも同じだが、亡くなった後の原稿や遺品の整理は、親身な家族がいたとしても、一筋縄ではいかないことなのである。ウイステリアは自分の身辺整理の中での父親の遺品の整理もかさなっていたので、私は幸にも絵を手にいれることができたのだ。それらの絵は砂漠のインディアン部落の小屋では飾られることはなかったであろうし、その頃は大学でも公開できるような場もなくて、まだ資料の段階で埋まっていたのだ。
ノックス教授はハートマンが写真批評を書いていたことを発見して、ハートマンが写真が表現メディアとして使われるようになり始めた当初から、写真表現を取り上げ続けた優れた写真批評家であることを高く評価している。事実ハートマンは写真批評の事実上の草分けとして、今日知られている。その業績は現在では本にもなっているが、当時は写真はダエレオグラフの域を出たばかりであり、ハートマンの感性や前衛芸術か、批評家としての目の確かさの証である。ウイステリアが写真家であったことは偶然ではないのだろう。ハートマンは芸術批評という分野で、文化的交流、影響、伝搬という根源的な的な課題を、身をもって実証した人物でもあったが、オリエンタリスム流行に乗ったエンターテイナーとしての評価が先に立ち、中々大手の、エスタブリッシュの出版界で著書を出すことができなかったのは、ポオの場合と同じだったのだと思う。サダキチも、ポオと同様に、批評の現在性を重要視し、雑誌というメディアに力を入れ、彼自身写真批評の雑誌を創設、刊行している。
定吉がもっと長生きをしていたら、というよりは第二次世界大戦が勃発しなければ、おそらく彼は晩年日本へ来たに違いない。ノグチ イサムもまた放浪のアーティストだったが、その芸術家としての生涯は自らの内なる日本を見つけ出して行く過程であったと言えるだろう。それを思うと砂漠の中の晩年、ハートマンが何を考えていたか知りたいと思う。ハートマンはフロリダに娘を訪ねている時に亡くなったが、ボヘミアンとしての生き方を生涯貫いて芸術家だった。
その晩年に関しては、興味深い話が残っている。彼は近くの郵便局へ毎日のように手紙を受け取りに行っていたらしいが、マラルメやヴァレリー、パウンドなどから手紙が届いて、郵便局の人たちを驚かせていたという。しかしその謎めいた生活が、世界大戦が始まってからは彼がスパイであるという嫌疑をかけられることにつながり、CIAや警察に見張られていたという。サダキチはよく砂漠の裏山に登って考え事をしていたというが、それが、どこかと交信しているのだと疑われたということである。ハートマンは若い時から、ヨーロッパの象徴主義芸術に深い関心を持ち、その影響も受けている。マラルメとも交流があり、それが晩年まで続いていたことがこのエピソードでわかるのである。前衛雨滴モダニストとしてのハートマンと、日系人人としてのハートマン、象徴主義芸術と日本文化の関係、そして写真批評の先駆者として、ハートマン再評価は、ジョージノックス先生がアーカイブを作り資料を出版し始めた1970年代から始まり、今日ではますます関心が高まっている。私のハートマンとの再会は、私自身が異国の未知の砂漠の入り口の街街リバーサイドに住むための旅と重なっていることに改めて感慨が深い。
明治開国となっての外国人と日本の女性の恋愛物語は「蝶々夫人」でも有名だが、サダキチは母がお貞(定)という名前だったこと以外に、何も知られていないし、サダキチ自身も知らなかったと思う。定が幼い頃に亡くなったことやその後家族がドイツに帰り新しい母親に育てられたことなどから、お貞に関する資料を探し残そうという動きがなかったこともあって、サダキチは大きくなってもほとんど母親のことを知ることもなく、その機会にも恵まれなかったのだと思う。サダキチという存在が唯一の歴史的時代の東西二人の男女の出会いの記録なのだ。
サダキチの存在を長い年月の間日本も日本人も知らなかったのだから、彼を探し出したのが、ハリウッド映画界という不安定で一攫千金と名声を狙う場、スターも生む代わりに落ちぶれも作り出す、いわば天国と地獄が一夜にして入れ替わる、詐欺師と本物の区別がつかない、野望と自堕落が渦巻く人間劇の場であったのは異邦人芸術家の行き着いたところとしては当然であったと言えるのだろう。
リヴァーサイドからRoute 60に乗ってロスへ向かうとやがてハリウッドの丘が見えてくる。メランゴインディアン居留地とハリウッドを結ぶのは、私が毎日南カリフォルニア大学へ通っていた同じハイウエイだったことに何か運命的なものを感じた。1959年東京女子大学で太田三郎先生からサダキチハートマンについて教えていただいてからの長い年月が、このハイウエイの続く道の果てに蘇っているような時空を超えた錯覚に襲われた。
コンコードの家とポオの小屋、その違歴然としていながら、今では観光スポットになっていることにはない。ソローのウオールデンの小屋とインディアン居留地の小屋は同じ小屋でも知識人が意図的に隠遁するために建てたい場所と食い潰れて流れてきた居場所と、その違いはこれまた歴然としているのだが、これらの居場所には、作家の家という共通項があるのだ。そうならば資産価値や作家の生前の社会的位置や経済状況には関わらない居場所としての共通項があるのではないだろうか。ユルスナールの家はそのことを強く感じさせた。家族の中で書いた作家と、一人居の孤独やプライバシーを守る中で書いた作家、社会や世間から受け入れられる存在を目指した作家と異邦人としての意識をを持ち続けて書いた作家。家や居場所は作家の自己意識と創作の原点となる自己存在意識を表彰していると思った。作家自身がそれを意識していたか、意識してそれを選んだかどうかは問題ではなく、結果的には彼らが残した作品と住んだ場所は分かち難く結びついているように感じたのである。

(了)


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