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水田宗子

幕間

崖の上の家:父なるものの凋落 第四章

2020/06/18

崖の上の家:父なるものの凋落

 

第四章

 

館山の家:政治家の娘

 

敗戦の8月には小学校の3年生だった私は、翌年安房郡の中心都市館山市に引っ越しをした。父が1946年の新憲法下最初の総選挙に衆議院議員への立候補を決めたので、館山市に選挙事務所を持ったのである。館山市は勝山から数駅、房総半島の岬の方向へ行った内房総の海岸添えの街で、北条、館山、那古、船形と外房へ続く山の方の地域などがあり、私たちは館山駅近くの北条に家を買って、そこに祖父母たちとともに、住むことになった。

勝山の家に比べて敷地が350坪ほどで、田舎町の家としてはそれほど広いことはなかったが、部屋数のある平屋の家と池や果物の木が多い庭があって、私は勝山から移って幼いながらつくづく広いなあと感心をした。離れは茶室に最適な作りで、祖母は早速茶道のお弟子さんをとり始め、庭には様々な茶花を植えた。母は接客のための別棟の洋館を建てた。天井が高く、大きなソファやイスがあり、その奥に台所のようなお茶を出す部屋があって、そこから続く納戸のような部屋を通ると母屋の日本家屋へ繋がった。この洋館は安普請で、ちゃちな感じがしたが、窓が多く、日当たりがよく、ブルーの絨毯が異国風な雰囲気を醸し出して、私はそこに一人で座っていることが大好きになった。小学校4年生ともなれば、自分のことも気になり始め、世の中のことに少し違った見方をし始めた頃だった。

この館山の家が、父と母の戦後の出発点となる場所だった。

家は館山駅前のロータリーのある広場から、海岸沿いに半島の先の白浜から外房線の終着駅の鴨川方面へと行く県道へ出て、そこを縦断して北条小学校の方へ、そしてさらに嶺岡の山々を経て鴨川から外房へと続く北条地域の大きな通りから、2本奥へ入って、県道と並行する住宅路にあった。隣は私立の熊沢女学校(安房西高等学校)の小ぶりな校庭で、前は槙の垣根で囲われた大きな敷地のお屋敷があった。この道は短くてやがて突き当たり、左は県道へ、そして右に行けば北条通りとやがてどこかで合流して三好や平群などの山村へと続いて行く道となっていく。戦災に合わなかった地方の都市の昔ながらの構造がそのまま残っている場所だった。

駅前から県道へ出て、北条通りの交差する目抜き通りの角の建物の一部を借りて、父は選挙事務所を開いた。二階が今でいう対策事務所で、支援者が集まっては、マイクで道ゆく人に呼びかけをしたりしていた。選挙は確か3月で、北条小学校に転入する前だったから、私はよくその事務所へ遊びにいった。

父は40歳。戦前は京都大学で反戦運動をしていたし、戦争中は特攻に見張られ続けるほどだったから、自由党から出馬するには、何のコネもない状況であったという。いわゆる地盤、カバン、看板がない、一介の若者だった。それでも党の公認を得ることができたのだった。日経の「私の履歴書」、『蕗のとう』で父自身が書いているが、面接時に鳩山一郎党首から「君は共産党ではないのかね、なぜわが党から出るのかね」と聞かれたそうである。のちに父は敗戦の間際に宣戦布告をしてきたソ連は信頼のできないと言っていたから、日本の復興をスターリンの率いるソ連との関係に託すことに疑念を抱いていたことは確かだし、民主主義の発展こそが日本の繁栄を可能にするとも述べている。

敗戦後初めての選挙だから、日本中が新たな熱気に溢れていたことは確かだった。当時のニュース映像を見ても、日本にとっての大事な新たな一歩を踏み出すための、重要な全国一斉の活動であることの意義は大きかったことがわかる。その上、日本初めての女性の参政権の取得、男女平等社会の実現へ向けての議員の選出の機会であり、多くの女性候補者が出た。戦争責任を問われた旧政治家や軍部の役員が皆政治から撤退させられている中で、戦争中に弾圧にあった反戦主義者や活動家の政治への晴れの表舞台進出の機会でもあった。

父の選挙事務所が特別な賑わいだったとは思えないが、母の必死の反対を押して立候補した父を家族全員が応援する様子は私には珍しい風景だった。幼い頃を含めて、子供の私の生活に父の姿が強い印象を残すような日常は初めてだったのである。父は戦時中巣篭もりをしていたわけではないが、戦争にも行かず、青年の頃の反戦の気持ちを抱えながら、史上最大の東京空襲の最中を、家族と離れて暮らしていたのである。父の姿はその頃の子供の生活で大変希薄であった。

父は選挙演説の会場へ私を連れいきたがり、小さな子供が舞台に上がって、よろしくお願いいたします、と選挙応援活動をしたことが評判になった。次の選挙からは選挙法で子供は応援に参加できなくなったので、それが私が父の選挙の応援をしたただ一回きりの経験となった。私には選挙がなんであるか、衆議院議員とはなんであるかは全く知らなかったので、ただ、父がそばにいることが嬉しく、応援するという自意識は全くなかった。父は人と会うときも私を膝の上に乗せて話をすることがしばしばで、選挙の時の短い日々が私が子供として無邪気に父に甘えていた思い出となった。選挙が終わると父と母はすぐに東京の東片町に家を借りて住むようになり、私たちは祖父母とともに館山の家に残されたのである。

父の選挙区は当時は千葉県全県一区で、連記投票で15人が当選だった。父は7位当選だった。政治には何の人脈を持たなかった若い新人の父の7位当選は、父を応援してくれた郷土の人たちがいかに大きなうねりとなったかを表して、多かったかを表して、新しい時代の幕開けを皆が感じたという。当選直後館山の家の玄関先で撮った写真があるが、そこに写っているのは親族だけと言っていいほど、家族と皆私も知っている人ばかりで、選挙戦が、大げさなものではなかったことを示している。2回目の選挙からは中選挙区になり、父の選挙区は千葉三区で、山武、東金から外房地域全体と木更津以南の内房地域と、千葉県の南端から外房地域となった。当選者枠は5名で、連記投票もなくなった。その後父は連続13回当選、30年国会議員としてつとめ、国会から表彰された。父の死後日本は小選挙区制に変わるが、父は小選挙区での選挙はしたことはなかったのである。

2回目からのは中選挙区制での選挙は、父個人の選挙であっても、5人中何人自民党が確保できるか、という戦いにもなって行き、競争の在り方が変わっていったということである。父は選挙中は全國遊説に飛び回り、その間母が選挙活動の指揮をとった。1953年父は欧州諸国の選挙制度の視察に初めて外国訪問をした。視察団の団長として日本を発つ父を羽田空港へ見送りに行った時の写真が残っているが、女性議員、中山マサ議員と他数名の議員とともにプロペラ飛行機のタラップに写っている父は40代後半の若い議員の姿だった。

 

館山の家での生活は、父や母がいないことで、私には毎日が自由に遊びまわることのできる日常になった。祖父は俳句を作らせてくれたし、祖母はお茶の席に座らせられた時でも、褒めることはあっても、あまり厳しく指導はしなかった。新しい北条小学校では、戦後の民主主義教育が始まって、先生方も戸惑いが多いように見え、叱られることはほとんどなくなった。勝山時代はクラスの誰かが叱られると一番先に泣き出すので困ると母が先生から苦情を言われたほどに泣き虫だったらしいが、北条小学校の4年生ともなると自分で自分のことが少しわかるようになってきていたし、俳句や詩で県の賞をもらったり、音楽が得意になったりした。

しかし何と言っても、放課後多くの友達と家で遊んだ思い出が鮮明である。庭には果物の木が多くあったので、みかんや桃を取って食べたり、木を登って屋根に上がったりして一日中遊び呆けた。祖父母は自分の子供たちは厳しく躾けた教育パパとママだったという評判だったが、孫の私たちには大変優しくて、親と離れていることを可哀想がり、何をしても叱ったりしなかったのである。中学生の姉はどんどん背が高くなり、長い足を立膝をして座るのを、帰ってくる度に母に叱られていたが、祖父母は姉を「脛長彦」と呼んで行儀を正すことはなかった。祖父母の元で私たち姉妹は野放しだったのである。後になって収穫を楽しみにしていた果物をみな子供軍団に食べられてしまったことや、屋根の上で遊ぶ子供たちに、すっかり瓦が歪んで雨漏りをしたことなど、随分祖父母を困られていたことを母から聞かされた。

毎日友だちとリヤカーに乗ったり、載せたりする遊びや、前の屋敷の槇の垣根から中を覗き見したり、隣の女学校の校庭へ忍び込んだり、たわいない遊びに明け暮れていたのである。その友達とは今も手紙や折々のハガキのやり取りをしているのだから、本当に仲良しだったのだ。

祖父はすでに逓信省を退職していて、一日中俳句を作っていた。富安風生先生が安房へ吟行に来られた際にはお供をしたり、家にお招きしたりして、句会を開いたりしながら優雅な老後生活を楽しんでいる様子だった。祖母はお茶の先生業にますます精を出して、離れのお茶室で、毎日お弟子さんたちにお稽古をつけていた。お弟子さんの数も増える一方で、小学校の教師を結婚でやめた祖母にとっては、本来の自分を取り戻したように生き生きとした生活だったのだと思う。館山の家は祖父母にとっての終生の住まいとなり、祖父が亡くなってからも、祖母は一人で暮らし続け、東京で一緒に暮らそうという母の薦めを拒み続けたのだった。庭の茶花やイチゴなどを栽培にも精を出し、私たちは汲みとり口から庭の隅の畑まで桶をかつがされて閉口したものである。戦後のこの時期は食糧難にも関わらず皆生き生きとしていたのだった。

父は代議士になって、土地の「名士」になったので、祖父母にとっても皆に親切にされることが多く、居心地が良かったのだと思う。祖父母の父びいきは大変なもので、若い頃の大学を出たばかりで就職先もなかった父に一人娘をやるということを決めたのだから、父の人柄をよほど見込んでいたのだと思う。母は私たちを心配してちょくちょく帰ってきたが、その都度バイオリンなどを買ってきてくれた。私はバイオリンよりも、勝山時代に東京空襲から救い出された蓄音機でかけた英語のレコードの方を聴き続けてすっかり歌えるようになっていた。バイオリンはついにうまく弾けないままだった。

館山の家には池があった。庭に池があるのは縁起が悪いと、私の留学後のことだが、その池は潰されてしまったようだが、その当時家族には縁起を担いだり、占いに頼ったりするものは一人もいなかった。その池には大きなガマガエルがいて、その鳴き声は恐ろしいくらいに大きかった。東京に移ってから、いつ頃かは覚えていないが、そのカエルは何処かに行ってしまったということだが、そのカエルは私たちがいても物怖じぜず、茶色の、かなり見場のよくない姿を堂々と見せて池の縁に座っている。カエルは庭の風物だった。房総には大きな家蜘蛛も多かった。茶色で実に大きい蜘蛛が、家の壁にはりついていた。毒もないし、家の中の害虫を食べるからと、誰も気にかけないでいた。夜中に起きた時に暗闇で何かを踏んだと思っていたら、朝になって大きな蜘蛛の死骸が床にあったことなどを思い出す。

館山の家にネズミは出なかったし、ヘビもあまり見かけた記憶はない。房総半島はマムシで有名で、父の生まれた曽呂村などは、夏には夜は皆長靴を履いて道を歩いたものである。ヤモリやムカデなどはよく見たし、夏には、蛾が引き切りなしに入ってきた。祖母は揚羽蝶やモンシロチョウをこさせたいと、いろいろな花を勉強するようになった。館山時代にはさすがに髪にシラミを住まわせている子供はいなかったが、蚤やシラミはいたのだろうし、ハエや蚊は家の中を自由に飛び回り、クマンバチは庭に大きな巣を作って退治するのに大変だった。春にはツバメが軒下に巣を作り、鳥は果物を食べに一日中庭に来ていた。開放的な日本家屋は、縁側からすぐが庭で、土に近く、ミミズはもちろんのこと様々な虫がいたのである。庭に果物の木があり、畑もある地方都市の家には様々が虫が共生していたのだ。なんと言っても大小の蜘蛛が家の中のあちこちにいたのである。後年カリフォルニアのリヴァーサイドの家の玄関で、大きなトランチュラを見たことがあった。その時はちょうど母が私たちを訪ねてきた時で、夫は驚いて母を驚かせまいと蜘蛛を追い払った。トランチュラは館山の家蜘蛛の二倍は大きいが、母は全く怖がらず、むしろ平気だった。トランチュラは毒グモなのだ。

館山には八幡神社という大きな神社がある。父の通った安房高はその神社に面していて、父は選挙に出た時に守り神様だと必ずご挨拶にいっていた。そこの祭りは大変有名で、神輿と屋台がいく台も出た。父が代議士になってからは、屋台や神輿が、家の前の通りにもやって来て、祖父母は門を開き、皆にお酒や水、食べ物を振る舞った。ところがそのあとは、祖母が丹精して植え育てた茶花は皆踏みにじられてしまい、祖母の落胆は大きかった。それでも毎年小さな草花を植え続けた。八幡神社の境内には父の死後銅像が建てられているが、後年安房高を訪ねた時、柔道部の先生が、柔道部の部屋に飾られている父のその頃の写真を案内してくださり、柔道部は朝練の前に、父の銅像の拭き掃除をすることを話してくださった。父は政治家としてではなく、安房高(当時は安房中学校)を全国優勝へ導いた先輩として尊敬され続けていたのである。

館山の家ではまだ電気冷蔵庫以前の生活で、氷を入れる冷蔵庫だったので、氷を買いに氷室へ行くことも楽しみの一つだった。群馬出の祖母は榛名湖が凍ることや、氷を切り出す様子などを話してくれた。そこから大きなトラックに積み込まれて東京や房総まで運ばれてくる様子を話してくれたのだが、温暖な館山の生活では想像もつかない風景だった。祖母が最初に教えた小学校は伊香保町で、のちに林芙美子の『浮雲』の映画を見たり、城西大学の父母後援会で訪れた時は、いつも祖母のことを思った。その当時の生徒だった人たちの幾人かは土地にいて、その中の一人は大きな旅館の主人になっていた。その人の息子さんが城西国際大学に入学したのである。彼は父母後援会の会長を引き受けてくれた。若い頃の祖母の話も大層面白かったが、祖母の生徒には群馬県選出の代議士や大臣になった人もいて、祖母のことを覚えてくれている人も少なくなかったのである。

冷蔵庫は小さかったから、ごくわずかななまものだけを入れて、毎日の食料品は近くの店へ祖母の買い物について行った。祖母は天ぷらが好きな祖父のために魚をよく買って、房州はすごいね、といつも店の人に言っていた。海のない群馬では新鮮な魚を手に入れることは贅沢の極みだったのだのだろう。戦後すぐの館山も食糧難だったが、野菜や果物は豊富で、食べ物に不自由はしなかったように思う。祖母はお蕎麦を自分で打ったが、上州のそばの美味しさは到底出せないと悔しがっていた。こんにゃく好きも大したもので、その影響で私はアメリカ留学中に最も懐かしかったのがこんにゃくだった。いくら防臭が気に入っていても、祖父母は群馬の食事も懐かしかったのだろう。

菓子類はほとんどなく、私は田端時代から引き続き甘いものを知らずに育った。買い食いをキン十れていたので、母が東京からおせんべいを持ってきてくれた時には、本当に美味しいと思ったことを覚えている。祖母は、こんなものは自分でも焼ける、と盛んに言っていたが、一度も焼いてくれたことはなかった。今では千葉はおせんべいの名産地である。その頃祖母がお茶のお菓子に何を出していたのかは知らないままだったが、後になって、古いお弟子さんの一人が、芋ばっかりでね、と祖母と笑っていたのを聞いたことがあった。お茶葉や抹茶も入手困難だったそうで、他の流儀の先生の所ではお茶が薄くて泡が立たない、など色々と話を聞いたものである。父や母を飛ばした祖父母との生活は、緊張感も軋轢も薄い上に、年のかけ離れた大人たちとの接触も多く、いろいろな知識を仕入れる機会ともなった。地獄耳だとよくからかわれた田端時代の幼い頃とはまた違った、もう少しまともな好奇心を育ててくれたようにも思う。

 

館山時代の思い出に、天津から引き上げてきた伯父一家、中でも、従姉妹、従姉妹たちとの交流がある。父母は北条の家を見つけるまで、駅から少し離れた館山港に近いところに家を借りて、選挙の準備などをする生活のベースにしていた。その家もまた敷地が広く、家自体もかなり大きくゆったりとしていた。門の脇にざくろの木とイチジクの木があり、どちらも実をたわわにつけた。木々の側には井戸もあった。アラビアンナイトの話には砂漠のオアシスにデーツやイチジクの実が現れるが、ざくろとともに異国情緒いっぱいの感じで、館山時代の思い出の風景となっている。

館山港はこの地方の大きな漁港で毎朝の市場の賑わいもあったが、戦争中は軍部の基地があったので、空爆の的になることもある、どこか機密地域でもあったのである。敗戦直後は基地駐在の将校たちが暴動を起こすかもしれないし、また兵隊さんたちから彼らが標的になり危険にさらされるという噂が立ち、父は私たち家族をしばらく九重の伯母の家で過ごすように取りはからったこともあった。館山湾は東京湾の出口に近い大きな湾で、波立ちの少ない穏やかな内海を形成していた。鏡ヶ浦と呼ばれるくらいに、一枚の鏡のように張り詰めた水面が三浦半島の上にそびえる富士山を大きく映し出す。どこか雄大で、おおらかな、威厳のある風景を展開している。父に連れられて、長い館山桟橋の先まで行き、そこから東京湾に沈む夕日を見た時は心を打たれて、忘れられない記憶の風景となっている。勝山の竜島の湾は小さく、物語の中のかくれ里のようにひっそりとしていたが、館山湾は外に向かって拓けていて、同時に広い東京湾の入り口を守る凜とした気配を漂わせている。対岸の三浦半島は伊豆半島の入り口だが、鎌倉時代の頼朝の亡命の例をとっても、東京をバイパスした交通路となって人の移住や交流も盛んだったのである。浜辺は館山海岸から北条海岸まで長く続いていて、この水泳場として人の集まる浜辺もまた、竜島のプライベートなひっそりとした佇まいとは対照的だった。勝山は松林が残る避暑地の雰囲気をもつ漁村だが、館山は地方の大都市なのだ。

そこへ天津で海運会社を経営していた父の次兄二輔伯父一家が引き上げてきたのである。千代子伯母は四国の出身で房総には縁者がいなかったし、伯父一家が千葉へ帰ってくるのは、そして父を頼ってくるのは当然のことであった。天津では羽振りが良かった伯父一家も、日本の敗戦とおそらくは命からがらの引き上げの船旅で疲労しきっていたのだと思う。

一家が初めて家に入ってきた時のことは忘れることができない。父よりもさらに大柄な伯父、地味な感じの伯母と二人の若い女性の娘たち、そして、姉と私とはそれぞれ一つ年上の少年の息子たちが、皆大きな風呂敷包みを背負って隊をなして門から入ってきたのである。上の従姉妹たちはもう年頃と言っていい女性たちで、口紅を塗っていたことを覚えている。もんぺではなくズボンを履いていて、どこか異国風で華やかな雰囲気を持っていて、見慣れた田舎の日本人の女性たちとははっきりと違った印象だった。やがて上の従姉妹(正子さん)は館山で評判の美人として戦後の地方の若者たちの間でもてはやされるようになった。まもなく土地の由緒ある商店のハンサムな長男と結婚し、実業家としての実力を発揮するようになる。下の従姉妹(友子さん)はおとなしいが自分の考えをしっかり持った女性で、勉強に精を出して外務省に勤めるようになり、地道で自立したキャリアーウーマンの道を選んだ。彼女は生涯独身で東京での一人暮らしを貫いた。私はこの容貌も性格も生き方も違う、全く対照的な二人の従姉妹たちを、遠くから眺めているだけだったが、戦前、田端の家に天津からお里帰りをしてくる時の伯父一家の中でも、綺麗な服を着たお人形のようなお姉さんたちから、キラキラしたセロハンで包まれたチョコレートをもらった時のことを思い出して、モンペをはいて風呂敷包みを背負った姿との違いに、不思議な気持ちになったものだった。甘いものが全くなくなっていた当時、チョコレートは宝石のような宝物で、私たちは近所の高崎さんの姉妹を始め数人の遊び友達とそれらを分け合って食べたのである。チョコレートの包み紙は、ずっと大切に箱にしまっておいた。

外地からの引き揚げはそこでの生活の全てを失う経験で大変きつかっただろうし、引き上げの船旅は身体的に困難な旅であったことは一家の疲れ方からもよくわかった。しかし、彼らは皆大変プライドが高く、精神的にへこたれたりする様子は人に見せなかった。贅沢な生活から、一文無しで帰国し、親戚の家に居候をする生活への変化は、自尊心を傷つけたであろうことは明らかなのに、母の献身的な世話に対しても、どこか頭を高く構えているようなところがあった。若い従姉妹たちにとっては、何もわからないままに歴史に巻き込まれて、急に逃げなければならない理不尽な経験をしているのだった。怒りや反抗心を内に持ったとしても不思議ではない。天津での生活との暴力的な断絶と引き上げの卑屈な経験が、それからの従姉妹たちの人生に、同じ戦後第一世代であっても、日本の戦後の若い女性たちとは違った大きな影響を及ぼしたことは確かだと思う。

従姉妹たちはそれまで日本での生活をほとんど経験したことはなかったと思う。彼らは日本を知らないで成長したのだ。敗戦で荒廃した日本、そして古い習慣の残る地方都市での生活を彼女たちがどのように感じ、日本人と自分たちとの違いとそのギャップにどのように対応しようとしたのか、彼女たちの内面の思いを私は知らないが、どこか揺るがない自己主張を内に秘め、一人は反抗的なほど派手に、わがままに、そしてもう一人は他者には無関心な単独者の姿勢で自分の道を行く女性たちは、引き揚げ者というよりも、祖国に帰還しながら、自分たちをよそ者であると感じる異邦人意識を持ったであろうことは想像に難くない。祖国離脱者ではないにしても、帰還者のはみ出し者意識を自己意識の根底に持ち続けたのではないだろうか。その意識と内地日本人への違和感を持って、たくましい生き残りの生を生きようとしたのではないだろうか。

下の男の子たちは、年下の、と言っても同い年に近い私たちには大変横暴でいつも大威張りだった。美味しいものに食べ慣れていて、大勢の召使いたちに囲まれて、自分たちは偉いと思ってきたのだろう、周りの人にも横柄な態度だった。私たち姉妹は、この従兄弟たちとは、小学校も中学も違っていたが、歳が近いせいでよく一緒に遊ぶ仲になった。それでも私はいつもいじめられたり、してやられる側で、体の大きな彼らはボス気取り振舞いを続けたのである。のちに私たちは東京へ引越しするが、彼らは大学に行くまで、館山の学校にいて、ともに高校の野球選手になって活躍した。彼らは私にカーブやノックルボールの投げ方などを教えてくれたし、カーブボールの見分け方も教えてくれたので、私はいっぱしの野球少女だったらしい。ずっと後になって、1980年代の終わり頃、アメリカから帰ってきている時に、私は北条小学校でキャッチャーをしていた男の子(渡邊さんという男性)に偶然銀座で出会った。ともに夫婦連れであったが、話に出たのは野球をした時のことだった。遊びの少なかった敗戦直後には、女の子も男の子と一緒になって、棒切れで球を打って遊んだのである。その子によると私はピッチャーだったそうで、二人とも、その時の思い出をずっと持ち続けていたのだ。

二人の従兄弟の横柄な態度は伯父譲りだった。伯父の態度はボスの態度そのもので、特に母に対しては三男の嫁扱いだった。引き上げてきた夏、居候をしている家で、暑い道を歩いて帰ってきた母が風呂に先に入ったと、ひどく叱られたことがあった。母は舅、姑に仕えたことがないので礼儀を知らないとも言われたらしい。父のことはもちろん、水田家の人々の悪口や文句を言ったことのない母が、この伯父に関しては大変厳しい評価で、いつもその態度だけではなく考え方にも批判的だった。伯父は館山に落ち着く間もなく、いろいろな事業を企画し、その大半がうまくいかなかったので、その度に尻拭いを父がしていたそうである。その中でも弟たちに家や田畑を売らせてその資金で彼らを株主に仕立てて始めた事業が失敗した時は、父母は弟たちの土地を買い直すのに奔走したということである。父や母は決して金持ちではなかったので、よほど母はこたえたのだろう。それ以来伯父は母には出入り禁止扱いにされていた。

伯父は見たところも豪傑で、水田家の男兄弟たちの中では、最も頭が良く、行動力にも優れていて、植民地天津での海運業に成功していたので、皆から一目置かれてもいたらしい。弟たちにも影響力を発揮して、その代わりに昔はよく面倒を見たということである。父は山村に育った兄弟を皆励まして教育を受けさせるように父親に交渉し続けたこの次兄が大好きで、引き上げ後の相次ぐ事業の失敗からの屈辱をなんとか軽減してあげたいと考えていたようである。

国会議員として中央で活躍するようになっていく父を故郷の人たちは暖かく、心から応援してくれていたので、伯父が事業で失敗し、いろいろな人に迷惑をかけ続けることを母は大変心配していた。しかし伯父はやがて、千葉県の金谷港と川崎をつなぐ東京湾横断フェリーの会社を設立して、事業に成功した。事業がうまくいかないときでも、母によれば子煩悩の伯父は子供たちに高価なステレオなどを買い与えて、私立大学へ行ってからも家庭教師までつけて落第しないようにしたと、母はだから子供たちが甘やかされてしまうのだと言っていた。政治家の家には子供たちに出たばかりのステレオなどを買い与える余裕など全くなかったのである。

しかし私たちにとっても、従兄弟は従兄弟で、母もまた、彼らが東京に来ると優しくして何日も家に泊まらせていた。私は彼らの人生に深く関わることも、その内面に関心を持つこともないままに自分の道を進んでいくようになるが、彼らは私の幼年期の記憶の風景に強烈な印象を刻んだことは確かなのだ。疎開先の勝山から館山へと理由もわからないままに居場所を変えていった敗戦後の生活の中で、不意に現れた風呂敷包みを背負った家族の姿は、惨めったらしく、うなだれているどころか、傍若無人なよそ者の巨人たちが侵入してきたかのようだった。その思い出の風景はどこか神話的な匂いのする遠い異国の風景のようなのだ。彼らは皆個性的で、日本の家父長制家族の中の女性や子供たちとは明らかに違って、模範生とは正反対の、世間の評判を気にしない、自由なところのある人たちだったのだ。

私にはその後の彼らの人生が順調であったかどうかはわからないが、たまに法事で親戚が集まるときに、彼らは出て来ることが少なく、一人はアフリカに行ったということであった。従姉妹たちは、一人は外務省勤務を定年まで勤め上げたし、館山で事業家になった上の従姉妹は、事業に失敗したり、家族の問題を抱えたりしたこともあったらしいが、子供たちに後を継がせて、たくましく自分なりの華のある人生を全うしたと聞いている。

父は受勲をした時、母に伯父と囲碁を打ちたいと言ったそうである。母はあまり交流がなくなっていた伯父を招いて、二人は思う存分囲碁をしたと聞いている。父は伯父のことで迷惑をかけ続けた母に気兼ねをしていたのだと思う。その頃は、私はアメリカの大学で教鞭をとっていたのだった。

 

館山時代は父の時代の幕開けだった。敗戦によって、父は自分のやるべき仕事、生きる場と生き方を見つけたのだ。公的な、社会的な居場所を得たことで、父の父としての存在は高まったが、家庭内での父の力は大きく凋落した。母なしに政治家の家庭は機能しないことが明らかになったし、家族としての営みはすべて母中心で進んだのだ。母は父にとっても、私たちにとっても、そして水田家にとっても、不可欠な力を持ったのである。それは戦前の夫は外で仕事、妻は家庭の中という性別役割分担に、主婦の社会的な存在意義が正式に認められたことでもあった、主婦は影の存在ではなく、実力者となったのである。

しかし、そのような生き方は母にとってはどうであったのだろうか。今では全く当たり前の参政権や親権なども母はそのとき初めて女性として得たのであった。戦後の選挙では現在までの歴史で最も多くの女性議員が誕生したし、女子大を卒業した女性たちの多くは国立大学に入り直して、学者や医者、国家公務員のキャリアーに進む人もいたし、海外の大学へ留学して、独自な人生を歩んだ女性も多かった。戦後の転換期に、女性にはそれまでになかった人生の道や社会進出の機会が開かれていたのだ。30を出たばかりの若い母にはそのような可能性を開拓していく将来が見えたはずである。

その反面、戦後の日本には戦争未亡人や戦争花嫁となって渡米した女性たち、原爆の被害者と、多くの戦争犠牲者がいた。敗戦直後は男たちと同じように闇市でも働き、内職をし、売春禁止法ができるまでは色街でも働いた。そのようにして生き延びをした女性たちだが、次第に、復興した企業での仕事は性別格差が定着し、女性の給与は男性のそれより低く、専門職への道はほとんど閉ざされていくようになる。一方では核家族の一般化で、男、夫は仕事、妻は家事育児という分担が一般化していき、女性は再び家庭に封じ込められるようになっていく。戦後の復興は、男性にとっては経済発展の戦士としての役割を、女性にとっては、その男性の労働力の再生産と子供を産み育てる生命の再生産を担う家庭内での役割に、定着させられていくのである。

疎開中にリーダーとしての資質と能力を自ら見出した母にとっては、戦後自分のキャリアーを育てる機会はあったと思う。教師としての職業に誇りを持っていた祖母は、長女には教員になる道を選ばさせていた。しかし母は政治家の妻として、父とともにその道を歩むことを決めたのだった。結婚するときに、政治家だけにはならないと約束させられた、と父は自伝で書いているが、母はそれほど嫌っていた人生の道を選ぶことが、自分のキャリアーでもあると考えたのだろうと思う。それは全くの裏方の役割だが、実際には地域の人々との交流が最も大きな仕事である役割であった。疎開での経験から母はそのことに自信を得たのだと思う。母はのちに自分の会社を経営し、また、高等学校や大学の理事長として教育事業に携わるようになるが、それらは父の遺志を継ぐという目的を持ったものでもあり、母はあくまでも父の妻として、ともに生きていく道を選んだのだと思う。その意味でも、母は個人であることを追求する新しい女性というよりは、むしろ母系家族のマトリアークのようだったのである。それは明らかに、祖母のDNAが流れていたのだった。

母は都会の中産階級家族の娘として、女学校は出たが、学者や研究者になる修行や勉強はしていなかったし、作家や芸術家でもなかった。特別な技能も身につけていなかった。しかしそのどれをも洗濯して自分のものとする機会を、30を出たばかりの母は持っていたのではないだろうか。父を助けるだけではない自分の仕事や生きる道を、母は、当時も、そして父の存命中は考えなかったのだろう。1976年父が亡くなった直後に、選挙区の支援者の方たちが、母に選挙に出て欲しいと正式に頼みに来たことがあった。母は地盤を継ぐにふさわしい人だと考えたのだろう。しかし母は頑としてそれを受けなかった。その代わりに、父の創立した大学の理事長を引き受け、以来27年間全身全霊で大学の発展に尽くした。それは父との人生を全うすることであったのだ。

私たち家族も母が代議士に出ることには反対した。何よりも、政治家としての仕事はきつく母には気楽で自由な晩年を過ごしてもらいたいというのが私たちの願いだった。すでに女性の時代は大きな曲がり角に来ていたが、男女雇用機会均等法ができるのはまだ10年先のことだった。頭の良い母は、自立した政治家として活躍するためには、政治家の妻という長年の役割が役に立つとは思わなかったのである。自分が新しい時代の女性政治家として貢献できるとは思わないという母の自己評価を、私はさすがだと思い、母の決断を尊敬した。

母は1976年、父の没後大学の理事長になると即座に女子短期大学を設立して、社会で活躍する女性のための教育プログラムに熱を入れたのである。それ戦後の女性・ジェンダーをめぐる変化を肌身で経験しながら、妻であることに甘んじた母の積年の夢だったのかもしれない。

伊香保の祖母の生徒さんの旅館で私は、祖母だけではなく母の戦後の生き方についてよく考えた。母は生涯父にとってはかけがえのないパートナーで、家庭の中では母の力の方がはるかに大きな影響力を発揮していたばかりでなく、水田家という家族共同体にとっても、その維持やまとまりを保つための中心的役割を果たす存在だった。戦後家族内での力のバランスは、母の力の上昇に比例して父の力の弱化という、洋の東西を問わず、女性の平等獲得の歴史では、古くて新しいあり方だった。政治家としての父は国際社会でも活躍するようになり、日本の経済復興を支える重要な仕事を次々とこなして、大変忙しい年月を過ごした。選挙は母にとっては責任の重い、身体的にも大変な時で、終わった後は、ひどい時に数ヶ月も全身の湿疹が治らない時もあった。私たちは杉の葉や柿の葉など、シップに効くという植物を近所にもらいに行ったものである。

疎開中は母は自分が主役の、責任のある生活を見事に生き抜いたが、戦後は政治家の妻としての役割が、公なのか私的なのか境界線が曖昧な生活の中で、父にとって母の存在が必要になればなるだけ、不燃焼な自分を感じていたのかも知れないのである。大学の理事長になってからの晩年においても、母はまだ知名度の低い大学を盛り立てようと、猛烈に忙しい生活だった。母は少しも変わることなく、「肝っ玉おっかあ」でい続けたのである。

私の館山時代、母はすでに東京に戻っての仮住まいだったが、洋服を着ることが多くなり、髪にはパーマをかけて、館山のダンス教室に通って社交ダンスを習った。建て増しした洋館で母は一人で練習をして私にステップを教えてくれたこともあった。それが悪口の種になり、母は祖母に叱られたそうであるが、母はダンスをやめることはなかった。正月に父が帰ってくると選挙区の人たちや郷土の人たちが大勢家に来て家中は大変な騒ぎだった。母は大きな魚を何匹もさばいて食事を作り、私たちは玄関で下駄番をさせられた。中には父がいる間中毎日来てくれる人もいて、総じて100人はゆうに超える来客に、私たちはお正月に晴れ着を着たことなどは一度もなかった。

 

館山時代は2年ほどで短かったが、父母と離れて祖父母と暮らす日常で、庭仕事や肥やし担ぎをし、祖母から日本の古典文学について色々と聞いて教わったし、俳句も毎日作った。お茶の指南も受けた。お小遣いはなく、近くの店に何かを買いにいくことは「買い食い」と言われてダメだった。その頃から自転車に乗り始めて、私はよく祖母を後ろに乗せて役場へ行ったりした。ある時、祖母が落ちてしまい、唇を紫色に腫らせてしまった。私は申し訳なくて泣いたが、祖母は平気な顔をして、薬もつけなかった。小学校4年生の自転車に乗せてもらうには勇気がいると祖父はかえって感心していた。

館山の家の風呂場は外にあった。祖母は風呂からあがると食卓に鏡を立てて、クリームを首から胸まで塗って肌の手入れを怠らず、ある時は白髪染めをして、私は仰天したことがあった。祖母の白髪姿を見たことがなかったからである。祖母も母も朝家族の前に出る時には決まって身支度を終えていたので、稀に見た祖母の風呂上がりの様子は驚きに満ちていた。他方、おしゃれで有名だった祖父はごま塩の髪を毎朝、鏡の前で櫛で真ん中で丁寧に分け、口髭を整えた。それは私が知っている限り生涯変わることのない毎朝の行事だった、その時には祖父はすでに身ごしらえを終えていて、いつもの着物をきちんと着ていた。私は毎朝そばでその様子を見ながら、絵に描いたような日常の決まりをこなしていく祖父に畏敬の念を感じたものだった。酒に酔っ払ったり、夜更けまで大勢の人たちと話し込んだり、碁を打ちながらあたりに灰を撒き散らす父とは全く違っていたのである。祖父も祖母もお酒を一滴も飲まなかった。

 

勝山町と館山市で過ごした小学校時代は、私の子供時代の思い出の中心を占めている。それは失われた楽園のような、信じられない子供時代の私の姿を残している、夢の風景の記憶となっているのだ。小学校の5年生で東京へ移ってから、私は雙葉学園というキリスト教の私立学園で勉強することになり、それからは学校生活も家での生活も全く違うものとなっていったのである。それはあまりにも激しい変化だったので、私の性格形成や考え方、そして情緒的な面でも、その変化は「断絶」というに近いと言えるだろと思う。それは自意識の形成なのでもあり、私の子供時代は館山で終わるのであった。東京での生活は私の精神的自立へ向けての出発だったのである。

東京から勝山へ疎開しても私はよそ者としての自覚を全く持たなかったが、東京へ帰ってきてからは、私はどうも雙葉の上品で文化の香り高い環境からはみ出したよそ者だと感じることが少なからずあったのである。友人はすぐにできたが、雙葉の生徒たちは親が雙葉出であることが多く、環境に馴染んでいる人たちばかりであった。私ともう二人が5年生への編入試験に受かって入った新参ものだった。その中の一人は阪口美奈子さんと言って、のちに演劇「アンネの日記」のアンネ役でリクルートされて、女優になった人だった。彼女もまた、映画や舞台に立つことを禁止していた雙葉では、どこかよそ者であり続けた友人だった。

私の「よそもの」意識は、まず父が政治家であるということを初めて意識させられたことからであったと思う。同時に、私の家族はキリスト教ではない「俗物家族」だという意識でもある。田舎育ちの私は雙葉では言葉遣いがまず違ったが、雙葉流のことば使いは、反対に家ではかなり笑われたりしたのだ。特に公立の男女共学の学校へ行っていた姉にはよくからかわれた。私は真っ黒に日焼けして、房州弁で喋り、学校でも友人関係でも物怖じしない、活発で明るい子供から、無口で陰気な子供になった、というのが父の意見で、父はいつもそれが気に入らなかったようだった。

確かに雙葉では「校長様」をはじめ先生方は黒衣に身を包んだ修道尼が多く、フランスやアイルランドから来た尼さんたちが多かったし、毎週のイグナチオ教会でのミサや、小学生にも必須科目だった英語とフランス語の勉強と、学校での勉学環境は館山でのそれとは全く別世界だっただけではなく、家庭の環境とも随分違っていたのだった。雙葉に馴染んでいくに従って、私は家でもよそ者意識をもつようになったのである。それは特に母に対して大きかった。

しかし、館山から東京へ移り、やがて西片町に住むようになった私の中学、高等学校時代を通して、雙葉での学園生活こそが私に文学や哲学への思考を導いたのであり、キリスト教の道徳観も考え方に影響を与えたのである。私の自意識はこの時代に形成された。今振り返ると、1948年戦後の東京へ帰るまでの田端、勝山、館山の家で過ごした子供時代だけが、どのような慚愧の念や恥ずかしい気持ちを感じることなく、ただ懐かしさだけで思い出すことのできる記憶のように思える。そこには未だ自意識で犯されていない無邪気な子供の姿が見えるのである。

 

 

 


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