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水田宗子

偶感

コロナ雑感6:本を読む

2020/06/1

本を読まなくなったといわれて久しいが、本を読まない時間、人々は何をするようになったのだろうか。外出自粛で家にいる時間が増え、ストレスが溜まってきても、人々はその解消をテレビなどの映像を含む情報発信に頼り、本を読むことに頼ろうとしない。家にいるストレスの中には4、6時中家族と一緒だからということからも大きいだろう。いかに親しい人とでも、自分の時間が持てないことは苦痛である。本を読むという行為は一人になることを必要とする。子供達や夫婦で読み合うこともあるが、原則的に本を読むのは思索をすることであり、自分の内面と向き合うことでもあるので、一人の時間が必要となる行為なのである。

イギリス文学では、生活に余裕のある都市中産階級の定着によって、女性の識字率が上がり、家で過ごす女性の時間に余裕が出てきたことによって、小説というジャンルが発達したと言われている。印刷術の発達も、物語を一人で読むということを可能にした。文明と本の関係は、読者の側の環境変化に大きくして依拠してきたのである。

19世紀の半ば、アメリカに賃金労働者が急速に増えた時に、雑誌というメディアが出現した。労働者が夕食後の時間を過ごすのに、読み切りの記事や小説を載せる雑誌は手頃に手に入り便利だったのである。その頃短編小説や短い詩、評論やエッセイというジャンルも発展していくのだが、それは読者が、暇な時間を潰す、自分の時間の使い方に合わせているし、また、情報の入手の仕方とも関係していたのである。ラジオやテレビの普及以前は、活字文化があらゆる階級に浸透していき渡る時期でもあった。

現代人が活字離れをしていく過程には映像文化とテクノロジーの発展があり、人々の情報・知識の取得手段と、討論や意見交換の方法の変化があり、そして、それに伴う感情や情緒のあり方や機能の仕方も変わったのだと思う。

本の読み手が減るということは本の書き手も減る、あるいは変容するということだ。一冊の本を書くことは一冊の本を読むことの何十倍、いや何百倍の時間と努力と思索を必要とする。本を書くことは他者とのコミュニケーションの重要な手段ではあるが、一人も読者がいなくても本を書く書き手もいる。それは書くことは自分と向き合うことであり、書かなければ自分が見えないからだ。書くことは内的な衝動に突き動かされる行為だからだ。

しかし読み手がいないと、作家や評論家は減っていくし、書くものの内容も変わっていく。作家とはそれで生計を立てる人のことを言うのだからだ。本が売れなくなれば、教員になるか、テレビに出ることで、作家や批評家、哲学者をやっていくことを考えるようになっているのだろうが、やはり、狙うはベストセラーだろう。印税という制度が存続可能である限りはであるが。少し前は日本は一億総作家、一億総読書人と言われたことがあったが、あっという間にその現象は消えてしまったのだろうか。

そこには情報の取得の仕方と、情報への信頼の持ち方が大きく関わっているのだと思う。絶対的な、普遍的な真実に対する疑念、自分の真実は他者の真実ではないという相対主義、そして真実を求めることへの冷笑と諦め、それらを加速させるのは、ビッグデータと呼ばれるコンピュタの情報蒐集に対する敗北感から来るように思える。先日テレビでビッグデータを分析することで感染症対策の道を見出そうという科学者達の試みを聴きながら、これでは一人の人間の頭脳や思考は全く敵わない、作家の考えることや書くことが信頼されないのも、説得力のある本が読まれないのも、致し方ないと感じてしまったのである。何よりも書き手本人が自信をなくしてしまうのではないだろうか。どんなに時間をかけて調べても、思索をしても、それはたかが一人の人間の頭脳と精神や心の産物である。あの人は何を考えているのだろうか、あの人ならどのように対応するだろうか、と一人の作家や哲学者の思考をたどっていたいという知的欲求はなんとも心もとないことになってしまう。書き手の側が、わかりやすく、情報が整理されていて、読みやすい本を書くようになるのは仕方ないことなのだ。

今日ではいかにヒットラーであっても、あれだけ多くの不特定多数の人々の感情や思考をコントロールして、600万人ものユダヤ人を殺すことはできないだろう。皮肉にも一人の人間の頭脳や思考、精神は矮小化されてしまう傾向にあるのだから、たとえヒットラーにしても、もうそんなに信じてはもらえないのだ。コンピュターが人間の頭脳を越える時が危ないという人もいるが、すでにビッグデータは超えている。人間が自分の思考や感情をデジタルに移行させて残したいと欲求することは、自分の遺体を宇宙に飛ばして、地球の周りを回らせようとするくらいの独りよがりな値打ちしかないのだ。これからはさらにビッグデータの中の一片の情報に過ぎなくなることは明らかなのだ。

しかし、このような状況下だからこそ、哲学者が脚光を浴びているのではないだろうかと思うと皮肉である。テレビでインタヴュに答える哲学者たちは、それぞれ、何百万部のベストセラーを持っている人たちで、その本も、インタヴューでの答えも大変わかりやすい。彼らの分厚い本はあっという間に読めて、あれだけの情報を調査し整理したのに、気の毒に思った。

哲学は難しくなくなり。また一人での思索も必要としなくなったかのような印象さえ持ったのである。外にいることが原則あるいは前提となった家族のいる家は、皆が家にいるようになると、一人に閉じこもらなくても読める本が必要なのかもしれない。刺激的で魅力的な若い哲学者たちに乾杯である。


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