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水田宗子

偶感

コロナ雑感5:書斎

2020/06/1

外出自粛で、テレワークなど家を仕事場とすると、やはり個室が必要になる。会社で仕事をすることを当然として、家と仕事場を分けて来た人たちには、家に自分だけで使える書斎がない人もいるだろう。家族共有の場で仕事をするのは、慣れていない人にはもちろん、慣れてもなかなか集中できないだろうし、家族にとっても落ち着かなくなってしまう。家に仕事を持ち込まないことを信条としている人もいる。資料などが家にはないことや、一人で使える空間がないということだけではなく、仕事と個人生活の住み分け、ひと頃良く言われたonとoffの仕事とプライベートな時間的区分が、同時に、頭脳や心の区分に繋がっているからだろう。だが、頭脳や心は自動的に切り替えることができるのだろうか。家というプライベートな居場所としての空間で、それを可能にするのは、書斎=仕事スペースと居間などの区分なのだろう。建築が思想的にも主役な時代なのだ。

それでは家に自分だけの部屋がない人は、自宅勤務は無理なのだろうか。元来研究者や作家など家で仕事をする人にとっては書斎はなくてはならない一人だけの空間である。書斎は大きい方がいいという人と小さい方がいいという人がいる、窓から外へと拓けている空間がいいという人と、暗く閉鎖的な方がいいという人がいる。書斎は志を同じくする人たちと語り合う場だという人もいれば、書斎は隠れ家だという人もいる。本や原稿や資料で辺り構わず散らかしている人もいれば、机の上にコンピュターだけがのっている人もいる。昔は原稿用紙と万年筆だったが。本は書斎には置ききれなくなって、家中に本棚を作り、食堂にも、台所にも書棚がある家も知っている。戦後の住宅難時代には、書斎は求めようもなくて、喫茶店や地下鉄で執筆した人も多く知っている。私の恩師は、部屋の中に洗濯物の干し綱を張りめぐらして、そこに、洗濯バサミで資料や原稿を下げていた。今思い出すと懐かしい風景である。

私は結婚してからは一貫して書斎は夫との共有だった。子供が増えるにつれて、家の中に書斎のスペースもなくなっていき、テラスを閉めたり、ガラージを潰したりして書斎を作り、二人で共有した。初めは机を並べていたが、次第に互いの机の距離が広がり、部屋の彼方とこちらが互いのテリトリーとなり、書斎に入っても相手のいるところを素通りして自分の机に行くようになり、それだけに相手の存在は全く邪魔にはならなかった。

それでも私は寝室にも、居間にも机を置いていた。部屋よりも机の方が、家にいるときにいろいろなことをしなければならない私には必要だったのだと思う。東京のマンションでは二人の書斎はあったのだが、納戸に私の机を入れて、その小さくて暗い空間が気に入っていた。現在は書斎を独り占めしていて、亡き夫の机の上にも原稿やメモを広げて、のうのうとしているが、それでも夫の後ろ姿はその部屋の風景のなかにい続けている。

家の中の居場所とは、家が居場所でありながら、さらにその空間にもう一つの空間を必要とすることで、それはつまり、家族間の距離のとり方と、自分の内面と向き合う、そしてそこに沈潜するためにどのような空間を必要とするのか、という課題なのでだと思う。

会社などの仕事場では内面に向き合わないのだろうか。会社で個室を持つ人は役員級の人だろうから、ほとんどの人は机があるだけなのではないだろうか。個室があってもガラス戸で、中が見られるようになっている場合が多いだろう。他者とスペースを共有する図書館は本を読むだけでなく、執筆や思考をする場でもあるだろうし、個人が使える机のあるスペースを設けている美術館や多目的ビルなどもある。一人でいる、という身体的な条件よりも、一人になれるというメンタルな条件を満たしているかどうかが、課題なのだと思う。一人になることは他者のいる空間では可能でも、家族のいる空間では困難なのだ。距離とは身体的なことばかりではなく、メンタルなことなので、親しい人たちとの間では距離を取るのが難しいのだ。

仕事と家庭の分離は望ましいのだろうか。そして、家の中に個室がないと分離は困難なのだろうか。現在でも、仕切りのない広いスペースのあるロフトはアーティストや、作家の生活と仕事空間として人気がある。そこに仕切りを作っている人もいるし、全く仕切りがない空間の中で仕事をし、食事を作り、寝ている人もいる。大勢の家族でというのはないだろうが、二人で暮らしている人は多く知っている。アーティストにとって仕事と心は一体化していることが多いからだろうと思う。

漱石など戦前の作家の中には書斎が客間でもあって、仲間の作家や弟子たち、記者たちなどは、書斎兼客間で作家と会い、話をし、交流をする場としてあったらしい。執筆している時間には家族も人も入れないのだ。つまり、場所を区別するのではなく、時間で区切るのである。その方が合理的でもあるように思える。客間は作家にとっては、文学の話をしたり、論議をしたり、レクチャーをする場ともなるし、また、インタヴューや取材を受ける場でもあるのだから立派に仕事場である。客間と書斎が一体化した仕事場であるならば、一人になる場は時間で区切って作ればいいのだ。

一昨年訪ねたマルグリット・ユルスナールの家も、ロングフェッローの家も、客間と書斎が作家の仕事の場で、家族との居場所はキッチンとそこに置かれた大きなダイニングテーブルのある空間だ。昔の茶の間である。これもまた合理的であるが、そんなスペース的な余裕を日本のマンション生活に持っている人は少ないだろう。戦前の東京の借り家の方がずっと贅沢な住居環境だったのだ。とはいえ、この家の中の公的空間と私的空間の区分は、うんでもある家にいる主婦というジェンダーの区分でもある。妻が一人だけの部屋を主張すれば、このようなジェンダー機能に依拠するマンションの居場所構造は機能しなくなってしまう。

外出自粛以前でも作家たちは編集者や記者とはメールでやり取りをすることが多かったと思うし、会って打ち合わせが必要な場合でも家で会うよりは喫茶店など外で会うことの方が多かったのではないだろうか。

働く夫にとっても、働く妻にとっても、家はますます仕事場ではなくなっていき、仕事力、労働力再生産の限られた私的な場所となっている。「めし」「風呂」の場化しているのだ。家が居場所の主婦にとっては「めし」と「風呂」以外のことをする夫は邪魔な存在なのだろう。現代社会の住環境は進化しているように見えて、実際には実態とのギャップが広がる退化なのだ。

女性=妻にとっても、仕事は外ですることが多くなった。内職ではなく、会社勤めにしても、非正規雇用の仕事は、家に持ち帰ってする仕事ではないことが多く、仕事スペースは家の中には必要なく済ませられる状況が今日まで続いてきたのである。子供や夫が一日中家にいる時に、主婦が会社の仕事をするスペースは、初めから計算に入っていない家の空間構成なのだ。

男は仕事、女は家庭、仕事は外、私的な時間は家、というコンセプトが、ジェンダー役割の変容の実態に向き合わないままに、今日まで温存されて来たのだから、今急に夫も妻も在宅勤務と言われても、住環境も、心も、家族関係もついていけないのは当然である。在宅勤務を可能にするのはテクノロジーの進展ではなく、それを可能にする住環境の整備でもなく、個人と家族関係という現代文明の課題に真剣に向き合うことであるだろう。高度専門職業人としてのキャリアーを求める女性=妻も、男性=夫と同じ比重を占めるようになって来ている社会で、女性の労働者は、家計補助ための非正規の、アルバイト的な仕事をするものという固定観念を前提とした社会制度のあり方が変わらない限り、住環境も、家の構造も旧態依然としたままで、夫にとっても、妻にとっても、在宅勤務は困難なのだ。

 


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