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水田宗子

偶感

コロナ雑感4:家で過ごすこと

2020/06/1

家で快適に過ごすための情報が盛んにテレビ番組で報道されている。家で過ごすのは快適ではない、という前提に立っているとしか思えない番組であるが、それが外出自粛という異常事態を乗り越えるための「役に立つ」情報として受け止められている。家で過ごすことが日常の時間ではない人たちとは、仕事場、学校で過ごす時間が1日の大半である人たちだろう。その人たちにとって、家とは何なのだろうか。ひと頃「三食昼寝付き」という言葉が主婦を揶揄して使われたことがあった。その言葉が色あせたのは、主婦や家事に対する見方や考え方が変わったというよりは、家にいる主婦が少なくなった、働く主婦が多くなったからだろう。働く主婦にとっても、家事は負担になったのだ。いや、それは働かない主婦にとっても負担だったのだのが表面化したのだ。「飯」「風呂」しか言わない夫や何度も呼ばなければ食卓に来ない子供達、朝食の準備は、時間に間に合うように出かけなければならない夫や子供達のために、慌ただしく過ごす主婦にとっては戦場のようなものだ。家庭はプライベートな場所ではなく、主婦の役目を果たす公的な場なのだ。

家はプライベートな場で、どんなわがままも許される、わがままができる場だからこそ癒しの場なのだと考える、夫や子供達に反して、主婦はその癒しの場を与えるのが役目と考えられているのだから、決してプライベートな場ではありえない。家事労働の経済的計算が推奨されたこともあるが、実際現在でも主婦の免税、夫の年金への権利、など社会制度は主婦の労働が、愛情による自主的なものであること、家族の維持のために必要な労働であることに依拠した制度を維持している。

外出自粛で仕事や学校へ行かないで家にいることが、夫にとっても、子供にとっても、そして主婦にとっても、癒しの時間どころか、苦痛な時間となっていることは明らかである。だからこそ家で快適に過ごすための情報が氾濫するのだ。夫たちは家を買うために働く。家を守ると考えられている母親がいない家、働く母親を持つ子供たちは鍵っ子などと言われて、家が快適で癒しの場ではなくなっていることを示している。しかし現在では「日中主婦が家にいない家」が当たり前になってきているからこそ、外からの要請で家で過ごさなければならないのは家族全員にとって快適ではないのである。Empty nestどころか満タンなnestは今や異常事態なのだ。

戦後の日本は、夫、主婦、子供たち一人一人の個室の必要性の有無を、社会学者や住宅産業をあげて論じてきた。狭い土地に住む日本の家族にとっては、大きな問題でもあったのだが、それ以上に、家族のあり方に関しての論議として、私たちは真面目に論じてもきたのであるだろう。現在では、台所に立つ主婦が家族のそれぞれの動向を見渡せる構造の家、勉強も食事も、家族の集まりも可能にする仕切りのない居間兼台所のある広間、が流行りのようで、それは個室主義の弊害への解決法として、場所論から入るという戦略である。昔は日本家屋の中の茶の間が一応主婦の居場所で、食事の時に一家が集まる、つまり主婦の居場所に全員集合、という生活様式だった。円地文子の小説『食卓のない家』は、そのような主婦の居場所へ家族が集まることのない、バラバラになった全共闘時代の家族を描いている。それは家族が離散するということでもあるが、同時に主婦の存在が希薄になっていく家族現象を描いているのである。

家で仕事をするとなると、仕事場としての個室が必要である。学者や研究者、作家にとって書斎の重要性はいうまでもなく、仕事場でもあり、「自分一人の部屋」でもある書斎はこれまでの家空間構成の中心をなしてもきたのである。家は決して、主婦や家族のためだけではない、作家としての個人の生きる場所でもあった。それならば、働く主婦にとっても、子供にとっても同じことで、家の構造論議は振り出しに戻ってくる。主婦作家も多いのだし、イギリスの女性作家、ジェーン・オーステインが台所の椅子で小説を書き、それを椅子のクッションの下に隠していたという話はよく知られているし、ヴァージニア・ウルフの「私一人の部屋」は女性にとって自己と向き合い、自分であり続けるための必要不可欠な条件でもあったのだ。20世紀の日本女性詩人、石垣りんも同じことを考えていたことは明らかである。

現在、家がないとまず困るのはまず寝場所だ。世界中にホームレス人口は急増しているが、ホームレスとは実際には寝場所としての家がないことを意味している。家に代わって、寝場所は車の中や公園、駅の構内、ネットカフェ、路上、など、友人の家やホテルに泊まれない人たちは何とか寝る場所を確保しなければならないのだ。家とはまず雨露を防ぐ寝場所のことなのである。難民キャンプは、故郷の家を捨てて他国へ来た人たちのための、家に代わるテントという最低でも雨露を防ぐための寝場所群で成り立つコミュニティだが、生活の場としては環境が劣悪であることが多い。

そんな人たちには、家で過ごすことが苦痛であり、ストレスが溜まると感じる日本人はどう映るのだろうか。高い借金とモーゲッジを払ってせっかく手に入れた家という居場所なのに、そこで過ごす時間が長いとストレスが溜るという現象は、生き方の哲学、家族関係や社会的関係論としてしか論じることはできないのではないだろうか。それはコロナとは無関係なことなのであるだろう。それはもう家という場所論ではなく、居場所論であり、他者や社会関係論でも、実存論でもあるだろう。お家さまは嘆いているのではないだろうか。


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