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水田宗子

偶感

コロナ雑感2:コロナと環境問題

2020/06/1

ロスの友人たちは路上から車が減って、空気が澄み、遠くの山々が見えるロスがこんなに美しいところだと初めて知ったと言っている。私がニューヨークからカリフォルニアへ移った1970年には、人々が郊外へと移り住む文化の全盛期で、ダウンタウンがすっかりすたれていいた頃だった。ニューヨークと比べてロスの街中に人があまりいないことが不思議に思えた。留学が長くなり、6年ぶりに東京へ帰ってきた時は、あまりの人の多さに、日本は本当にアジアの町なのだと感心したことを覚えている。外出自粛は車社会の弊害を激減するには効果があるのかもしれない。

日本と言っても東京のことだが、Stay homeによって、ゴミの量が激増している。私の近所では、ゴミ出しの日には、いつもの三倍はゴミが出ている。そして、袋の中身を覗くと、ペットボトルをはじめとするプラスティックの皿や容器などが圧倒的に多い。デリバリー、出前の食事、お弁当、今はやりのドライブスルーの食事注文などは全てプラスティックの容器やラップで包まれている。コロナ前まではマーケットに自分の袋を持って買い物に行くように奨励されていたことなど、どこかへ吹き飛んでしまったみたいだ。自分の鍋やお茶碗を持って、食べ物をもらうことは、もはやキャンプや給食や刑務所や炊き出しなどでもしていない今日なのだから、コロナは環境への意識を逆戻りさせてしまっているような気がする。

災害時のための備蓄品も水をはじめとして、皆プラスティックの容器に入れられているのだから、これはもう消費者の意識よりも、生産者と流通の側の問題であると思う。新しい容器やラッピングの素材が開発されることを待つばかりだ。

 

 

コロナ雑感:お金

 

昔、子どもに何かを買ってと言われて、「そんなお金は家にはないのよ」と答えたら、「銀行に行って持ってきて」と言われて笑ってしまったことを思い出す。日本やアメリカは財政基盤がしっかりしているから、コロナ危機に瀕しても、お金で困窮する人々を救うことができる。だが、国にお金がない後進国の人々は、誰が救ってくれるのだろうか。国が銀行へ行ったってそこにお金はないのだから。アフリカやアジアの貧困地域の映像は本当に怖い。そんな恐ろしいニュースを見た後で、国会での討論を見ると、日本にはお金があって、自民党がそれを独り占めにし、出し惜しみをしていて、野党は、出せ出せと言い、評論家はチビチビと出さないで、一気に出さなければいけない、と言っている。そうか、日本にはお金があるのだ、日銀へ行けばいいのだ、いくらでも国債を発行してくれる、と改めて感心し、そして怖くなった。これまで、ニューヨーク市や、アジアの先進国が破産したことが鮮明な記憶に残っているからだ。人々は国や自治体を信用しなくなって、海外へ資産や自分たちの子供を住まわせるようになった。まだ世銀という銀行が救ってくれるうちはいいが、そのうち世界にはお金がなくなり、暴動が起きて、国は分断し、ファシズムが再び台頭するのではないかと。ミシガン州の暴動を見ていてそう思った。暴動を起こしているのはもはや黒人ではなく、白人たちだからだ。

 

 

コロナ雑感:コロナと食べること

 

昔夫が、食べなくていいならどんなにいいだろう、と言ったことがあった。子供達に食べさせることが第一の毎日だった私には、食事を作ることが面倒臭いのは男性の考えることだと思った。台所よりも書斎が居場所という生き方だと。しかし、コロナ自粛の日々、人間が外へ出て食料を買ったり、食べたりしなくていいなら、ウイルスも近寄らないだろと思うと、ホモ・サピエンスは周りには自分より強いものばかりで、ハイエナと同じく屍肉の残りを漁って生き継いで来たというカタリさんの論を思い出す。人類の頂点に立ってしまうまで進化し続けたホモ・サピエンスは食べるために競争するのではなく、美味しいものを、さらに珍しいものを食べる欲望を膨らませたのだ。食べ物をゴミとして捨てることへの罪悪感の欠如や、摂食障害、ジャンクフードと肥満、動物虐待など、食べることが生み出す暴力、病気、貧困、不安を再生産する文明を手にしたのだ。アマゾンの先住民は思想として生活様式を選んでそれを維持しているわけではないだろうし、その生活を美化する気もないが、いまや「生命より経済」を政策に掲げるホモ・サピエンスの文明が森林を壊し、彼らの生命の価値を最低のレベルに下げて、弱者の代表にさせられていることを見るのは、大変恐ろしい。


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