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水田宗子

偶感

コロナ雑感3:social distancing

2020/06/1

Social distancingという言葉は人と人との接触を少なくする、という意味だろうが、現在は人と人との距離を1.5から2メートルとるという意味で使われている。しかし、それはsocial distancingというよりはphysical distancingと言うべきなのではないだろうか。コロナ対策としては、会話をしないこと、対面で食事をしないこと、大声で応援などをしないこと、などなど、確かに人との関係に距離を保つことを奨励している。しかし、外出したり直接人に会えないから、デジタルで人とコンタクトを密にする、映画や音楽鑑賞のデジタル環境の充実、親族や友人との電話やfaceTimeの会話など、社会的な関係の強化をす努力も積極的になされていて、かえって今までメールや電話をあまりしなかった友人や知人とも連絡を取るようになったり、感想を交換したりするきめ細やかな交流もこの機に起きている。

結局のところ、social distanceというのは、「外出」にそれほど依存しない時代になって来ているのではないだろうか。それまでは田舎で同じ家や近所に住んでいた家族が、東京などの都市で働き、暮らす息子や娘、その子供たちとの交流を、一年に一度、あるいは二度、お盆とお正月には帰省するという社会的習慣の定着で維持して来たのは日本の伝統的家族を中心とした過去のsocial distanceの維持手段であるだろう。西欧ではクリスマスがあるが、休暇は原則的には自分のためであって、家族や昔のコミュニティとの交流のためではない。

しかし、日本でもすべての家族が田舎の実家に定期的に帰れるとは限らない。最近ではテレビ電話やskype, zoomなどで顔を見ながら話をすることが盛んになり、それはコロナの外出自粛で、加速され、また誰もがすることになったのだ。

東京やその他の日本の都市ばかりではなく、世界のいろいろな場所に家族が住んでいると、FacetimeやWhatsAppなどで話をすることはすでに以前から多くの人たちに行われていた。それは日常でのコミュニケーションの方法となって来ていた。外出の有無に関わらず、人と人との間には、たとえ家族の間にも、social distance は存在する。子供達が成長すると個室を求め、与えることは、すでに常識となっている。家族の間の距離はsocialなのか、あるいはprivateなのか、social、private とintimate=親密との区別に関してはフェミニズム批評が課題として来たことでもある。

一方でスキンシップという、主に赤ちゃんから幼児期に必要なこととして奨励されて来た言葉は、今では、大人すべて、そして社会的な交流においても必要なことと考えられている。他者と会えば握手をし、ハッグやキスをして、身体的な接触が心の接触でもあるという考えである。他者との距離を一挙に縮めてしまうからだ。日本ではあまり他者の身体に触れることをしない。互いにお辞儀をして、相手に敬意を払うことが社会的距離の取り方で、家族同士でもあまり、日常的に抱き合ったり、キスしたりしないし、手を繋いで歩いたりもあまりしない中で、親密な距離も保って来たのである。

日本の封建時代は、出頭して挨拶をせよ、というのが、権力者の距離の取り方で、参勤交代などは、もしデジタルで行うことができたら、どれだけ大名にとっては楽だったろうか。面接という行為はどこか権力の匂いが芬芬とする距離の取り方である。入学試験から就職試験まで、面接は採用する側の権力の誇示であることは明白だ。ビシネスの交渉も、裏交渉が社会的距離に大きく関係している。内緒の場所で、こっそりと人に知れずに会って、物事を決める。根回しも直接会って行われることが多い。あとは表の会議にかけて、初めに結論ありきの議事を「民主的に」決めるだけだ。

愛情や友情に関しては、何年も直接に合わなくても、手紙すら出さなくても、心が繋がっている関係はこれまでもずっと存在しているのである。「心の中で手紙を書く」とよく言うが、人はそれを日常的にいつでもどこでもしているのではないだろうか。記憶や思い出もまた、距離を縮めて、過去を現在の時間にとどめおく。

コロナ外出自粛が有事の要請ならば、Social distancingなどという複雑系の関係を意味する言葉ではなく、physical distancingという単純な感染防止行為を示す言葉に切り替えてはどうだろうか。


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