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水田宗子

幕間

【連載エッセイ】アメリカ 再訪 2018 ⑨

2018/11/10

最近のアメリカ情報はいつも驚きに満ちている。今日もアメリカで生まれた外国人の子供に国籍を与えない、というトランプ大統領の政策が通るかもしれないという新聞記事にびっくりした。アメリカは移民でできてきた国であり、「外国人」の力によって発展してきた国である。今世界中は外国人移民を入れまいとして様々な政策を作り出している中で、アメリカも、立国の根本的な思想を否定する政策を打ち出そうとしていることにショックを受けた。こうしてまた、人種区分による境界線が敷かれた国家制度が強化されようとしているのは、21世紀がグローバルな世界を可能にすると期待していた私には、驚きであり、アメリカに対する幻滅に近い気持ちをもったのである。

アメリカに暮らして私は日本人であることを疑ったことは一度もなかったから、アメリカの政策立案者や国粋主義者から見れば、アメリカに同化しない外国人は歓迎されていなかったのかもしれない。しかし、と言って、その人たちが、同化する外国人を歓迎しているわけでは決してないことも明らかなのだ。

一方で最近見た日本のテレビ番組で、有識者の一人が、日本に働きに来た外国人の中で、日本文化に同化できる人たちには「ご褒美」として国籍を与えることがいいと主張していたことにも私はショックを受けた。国籍は確かに生活する上で大きな保護と権利を与えてくれる。国籍を持たないだけで、たとえ永住権を持っていても、政治参加をはじめとして多くの社会的な権利や活動から疎外され、排除される。しかし、私は「ご褒美として」という言葉に大きなこだわりを覚えた。国籍がいつから権利ではなく、国家権力によって「与えられる」ものになったのか。そういえば私の子供達も父親が日本人でないために日本国籍が取れなかった時代があったことを思い出した。それは明らかに性差別である。日本は現在では父親でなくても母親が日本人であれば生まれた子は日本国籍を持つことができる。世界には二重国籍を容認する国が多く存在する。アメリカもその一つだ。

船で国を出ても受け入れる先がなく、海の上で命を落とす人々や、中でも子供達のことが報道されて来たが、その度に限られた人間の生きる場所である地球の土地を争って 占有しようとする「国家」の存在に疑問を抱かざるを得ない。地球には、海の上も含めて、人間が国籍なしで住むこと のできる場所、 国家が所有しない場所はもう存在しないのだ。海がフロンテイアであった『白鯨』の時代ははるか昔になってしまった。パスポートなし、とは地球社会の「潜り」、つまり潜伏者なのだ。そう考えると「潜り」こそ、表現の源泉のような気がする。「潜り」ははぐれ者や無用者や周縁に住むものとも違い、法を犯す可能性も、法を超える可能性も持っている「見えざるもの」である。

かつて「インヴィジュアル・マン」つまり、不可視な者とは社会からの除け者として、人間的な権利も尊厳も剥奪されている存在のメタフォアとして用いられたが、不可視であることは黒と白のように既成の価値の外、現在、ここという時間と空間の制限を超える存在の象徴と考えることができる。自分の内面への侵入を許さない者である。しかし不可視であることが、黒いサングラスをかけている者のように自己表現されてしまうと、不可視は可視になってしまうのだ。

詩人の白石かずこは1980年の初めパスポートを持たない香港出身の詩人を「中国のユリシーズ」という詩に書いた。当時香港はイギリスの植民地で、そこに住む人々の国籍は不確かだった。白石かずこは詩人の本質を、 お墨付きの定着の地をもたない「放浪者」に見て、自らの姿もそこに重ねあわせたのである。特定な国の国籍を持つか持たないかは、その人のアイデンテイテイに本質的な意味をもたらさない。人間は特定の社会制度を超えた生き物であることは、人間自身がよく知っていることなのだ。そこで生まれたからと言ってその国の国籍がもらえなくても別に構わない。国籍をご褒美だと考えるような国には住みたくないのが人間の本音なのではないだろうか。国境を越えて、どこにでも住める地球社会に人間は住みたいのだと思う。自分の存在意識が「国」に限定されることはかえって、存在の自由を奪うことになるのだから。自由に憧れてアメリカに移住したいという人々にとって、国籍を権力とみなす国は、自由を束縛する国であり、いずれは憧れの対象にはならなくなるのだろう。


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