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水田宗子

幕間

【連載エッセイ】アメリカ 再訪 2018 ⑧

2018/11/10

白と黒

 

リチャード・ライト『アメリカの息子』の主人公は殺人を犯した理由を聞かれて、白が恐怖を喚起し、咄嗟に殺した、と言っている。それは法の前で殺人を正当化することにはならないが、アメリカの黒人にとっての白人恐怖が意識の深層で象徴性を帯びるまでに至っていることを表している。それはアメリカの白人にとっての黒の恐怖と裏腹な関係にあるとも言えるかもしれないが、黒と白ではその象徴性が異なっていることが重要である。黒は西欧文化では常にサタンと結びつけられた邪悪な力、魔術や錬金術、呪いや怨念と結びつけられてきたし、一方で白い濁った透明性、つかみどころのない茫漠として、混沌とした世界や記憶や意識の象徴であることが多い。黒は悪であっても白は善悪の区別がつかない不透明で曖昧な領域とその力を喚起する。

白の恐怖、その不透明な力への恐怖はエドガーアッランポーの『ベレニス』にも表現されている。徐々に衰えて死んでいく愛する妻、その滅びてゆく肉体、死後残されたものは白い歯である。ベレニスは蘇ってくる吸血鬼でもあるが、そこにものとして、不滅な魂の蘇りの予告、その恐怖の象徴として残されるのが白い歯という不滅な肉体の部分なのである。一方でポーは黒という色を使って、『黒猫』ではその闇の深さを表現しているし、それを黒人と結びつけた小説もある。白人にとって、黒は恐怖を喚起する色なのである。

先にも述べたが、アメリカの批評家ハリー・レヴィンは『黒の力』という著書で、ホーソーン、メルヴィル、ポーの無意識の領域の探求、そこに詩的表現の源泉を見る解釈と理論 を展開している。黒は無意識領域を表し、そこには理屈や社会的規範や宗教的倫理と世界観で整理できない感情や願望が蓄積されている。そこが詩的インスピレーションの根源であるというのだ。レヴィンは黒が悪という西欧キリスト教的な概念と象徴性を、記憶の底に埋められた善悪の概念で整理され得ない経験や感情的経験、浄化も昇華もされずに沈潜されたままの記憶を呼び起こす力を「黒の力」と表現しているのである。

ハリー・レヴィンの黒は実際の色としての黒ではなく、メタフォアである。メルヴィルは白と黒の区分の曖昧性について、その対極性と両義性について、『 Benito Cereno』をはじめとする作品を書いている。ホーソーンの小説は、現実とは裏腹な世界の夢を見たために、現実への不信感を抱きそこから回復できないでいる主人公を描いている。価値の相対性、現実と個人の内面、現実を超越する世界との境界の曖昧さお認識であり、 そしてそれは善と悪に引き裂かれて社会化、文化化されたアメリカへの、そしてキリスト教への疑問でもあったのである。

白も黒も色のない色、すべての色を内包する色、すべての色の根源である色、とほぼ同じように考えられているところが興味深い。しかし同時にその対極性は社会文化の中でかなり明瞭に表象されている。黒人や有色人種にとって白人が恐怖を喚起するのは歴史的な経験からであり、白の持つ絶対的な象徴性からではない。むしろ白人の持つ白の恐怖は文学表現で多く見られるのだ。

演劇では黒は黒子というように、舞台の上で目に見えない人物やものを表し、白も見えない世界から来た人物やものとして同様に表彰されることが多い。文学表現が内面劇であればそれだけ、黒と白のメタフォアとしての活用は複層的になり、文化的既成表現をなし崩しにするために使われたのだと思う。アメリカが形成した文化的無意識領域の解体は、19世紀半ばのアメリカン・ルネッサンスという文学現象、アメリカ作家たちの内面的自意識発掘の表現を生み出し、その表現伝統は近代アメリカ文学を形成し、現代アメリカ文学にまで続く大きな底流となっていると思った。

白も黒も現在ではファッションの世界で衣服として一般化し、喪服と結婚式の花嫁衣装以外では象徴性を失っている。21世紀の新たな闇は何色で表現されるのだろうか、と考えた。


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