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水田宗子

幕間

【連載エッセイ】アメリカ 再訪 2018 ⑦

2018/11/10

白いアメリカ

 

カリフォルニアからニューングランドに行くと、そこが白人の世界であることに、改めて驚いた。これまでカリフォルニアやニューヨークに慣れていたためにその驚きは少々ショックに似たものだったが、考えてみれば私のはじめてのアメリカ体験は黒人がほとんどいないニューイングランドの大学であり、その意味でも今回のアメリカ行きが白いアメリカ再訪であったことに思い当たり、それもまた新たな感慨を与えてくれた。

私が滞在した息子の家はケンブリッジの大学から歩いて20分ほどの古いコロニアルスタイルの家が立ち並ぶ通りにある。その通りの角にレストランや食料品店があるので、昔のいわゆるネイバーフッドの雰囲気を残している。すぐ向こうの通りは、しかし、広い敷地と大きな家の続く通りで、観光スポットでもあるという。近年のボストンの景気の良さが、多くの教養のある企業家たちをチャールス川向こうの大学街ケンブリッジに引き寄せてきたという。大学は人種も、民族も、国籍も

多様な若者たち、そして研究者たちが世界から集まる場所であるが、その周りの街は、これまでの質素な雰囲気を残してはいても、実際には学者や若い研究者や職員には手の届かない不動産物件の街になってしまっている。

だからと言ってそこが白人の街とは言えないはずである。アメリカには白人以外の富豪もいれば、中産階級も白人ばかりとは限らない。しかも最近は近い将来アメリカでは白人がマイノリティになるという人口統計の予測もあって、白人の危機感や不安が高まっているとも言われている。しかし、そこがニューイングランドという独立時代からの伝統の地なのである。古いものが残され、文化遺産も多く、変化を嫌う文化意識が深く浸透し、定着しているのである。ボストンは政治的には保守主義の街ではないが、文化意識においては伝統意識の強い街なのである。そしてその伝統文化とは、清教徒と独立運動がその基礎を築いたアメリカ文化であり、それはすなわち白人文化なのだ。それはニューイングランドの意識文化というか、文化意識の深層を形成している。

今回のニューイングランド再訪は、私にとってアメリカ文化における白の意識について考える機会となった。それはニューイングランドの海が、そしてメルヴィルの家を訪ねたことが、『白鯨』について考えるきっかけとなったからだった。

アメリカの白というと黒人との対比で考えられがちだが、それほど簡単ではない。 そもそも白は生物や植物にとっては普遍的な色ではなく、突然変異でできることの多い、まれな色なのだ。白狐、雪豹、白狐、白鯨、などなど。だからこそ、その珍奇さが、普通の生き物にはない力を感じさせるのであり、それはむしろ白に対する畏敬と恐怖との気持ちを見る側が持つということなのだ。白に内在する本質的な力はないと言えると思う。

白の象徴性、そのメタフォアとしての歴史、そして心理学的な考察は多くなされてきたし、東アジア文化における白も象徴性や暗喩性に満ちている。しかし、ここでは広い未知の太平洋へ出ていくニューイングランドの港街に停留する白い帆船を見ているうちに、これまで考えてきた白鯨についての再考を触発されたのである。

これまで私は白鯨は原始の自然、フロンティアの最後の生き残りだと考えてきた。陸のフロンテジアはすでに1950年ジャクソン大統領によってその消滅を宣言されていたが、 海にはまだ広大な未知と未開の領域、富の源泉となるフロンティアが残されていた。『白鯨』では、原住民を征服し白人のものとなったアメリカの陸地、そこに定着した社会を家族を基礎にしながら形成していくアメリカの姿、その将来の民主主義的社会への希望を象徴するスターバック副船長がいる。その対極にはあくまでも最後の生き残り白鯨を追いかけ討ち取ろうとするエイハブがいる。エイハブの戦いはアメリカの自然征服の最後の戦い、最後のフロンティア劇なのだ、と私は考えてきた。

自分を陵辱するものへの決して折れない戦い、他者を悪に見立て、その存在と尊厳を破壊することを正当化する卑劣な他者への反発と攻撃力、そのプライドの内包する根源的な力が、エイハブの必死の人集め 、資金ぐりの集結した攻撃に屈することなく堂々と戦い続ける。白鯨の前ではあのエイハブも歯が立たないほど小さな存在に見えるが、同時に彼もあくまで闘いを諦めない対等な闘いを挑む一人の戦士であることには変わりないのだ。政府も財閥も大学も彼を助けたりしないどころか、彼を変人扱いしかしないのである。すでに戦いはアメリカのものなのだ。ほっておけば海もやがては開拓されるだろう、と。彼は一人で闘いの最低必要額の資金が集ったところで、船員をかき集めるのだ。

白鯨はやがて死に、海は人間によって開発され続けるだろう。白鯨の最後のトドメを刺すのは、遠隔から狙い撃ちをする今日的なテクノロジーの攻撃ではなく、一人のエイハブという闘士の素手での一騎打ちによってなのだ。それはエイハブの白鯨に対する敬意なのであり、そこがこのドラマの醍醐味なのである。

しかし、今回、21世紀が始まってそれほど経っていない大西洋の海を見ながら、私は南太平洋での原爆実験、福島の原発事故による海洋汚染、原爆搭載の潜水艦、ミサイルの落下、と生命の発祥地であった海の汚染こそが白鯨とエイハブの戦いに一つの回答を、そしてその戦い劇に、悲劇のフィナーレを与えていると強く感じた。20世紀のアンティ人間物語である怪獣たちの復讐劇、映像とアニメの世界に、大量捕獲されるロブスターは確かに立ち現われてきたが、白鯨はどうだろうか。その出現が待ち遠しいようにも思うが、いまだ実際の海で戦い続けているのかもしれないと思いたい気持ちも強いのである。

 


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