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水田宗子

偶感

コロナ雑感8:コロナと家族

2020/08/17

コロナ感染症による外出禁止・自粛で最も大きな影響を受けたのは、経済、医療・教育などとともに家族なのではないだろうか。それだけに家族について考える良い機会となった。家族が最も衝撃を受けたのは、病気になった親や子供、祖父母や親戚に会えないことだろう。中でもそのまま亡くなってしまった家族には、会えないままでの別れ、そして埋葬にも立ち会えなかったという悲しみは、癒えることがない、深く、悔しい経験なのではないだろうか。人間の文化は古来より、人の埋葬を大切にしてきた。それは人の生を大切に思い、その死を丁寧に敬ってあの世へ送ることだけではなく、別れの儀式と埋葬が、自分たちの出自や生い立ち、生活や固有文化の成り立ちを記憶と意識に刻み、維持し続けるための重要な営みだからであるだろう。一人だけで送ることもあるだろうが、埋葬には多くの人たちが集まり、その人たちが共有するものを確認する意味を持っている。

感染のリスクを払いながらも経済活動の再開が必要だというならば、まず人の見舞いと見送りこそ、必要なのである。人間性を失った経済活動は意味がない。人の生と死を敬う気持ちは、まず家族によって維持され、伝えられてきた。そしてその気持ちは共同体全体で守られてきたのであるだろう。共同体は経済や政治や大きな文化だけでの繋がりではなく、まずはそこに生きた個人を敬う気持ちを共有する母体なのだ。

家族のいない人は、それだけに、一人で死ぬ「孤独死」という「惨事」に見舞われることが多い。家族が多くいても、死はいつ訪れるかわからないのだから、夜中ということもあるし、風呂に入りながら、ということもあり、一人で死ぬことを「孤独死」ということには違和感を覚える。孤独死が寂しいのは、別れや、看取り、そして、遺体を大切に扱うことを含めた埋葬がすぐになされないままに放置されることによるのだ。それだって、家族が海外に行っていたなどということもあるし、結局人は死ぬときは一人なのである。国家や法律によって禁止されて、または、社会規範で感染者を疎外して、人の死を悼まないことこそが、そして家族や関係者による丁寧な埋葬を不可能にすることが最も「孤独」な死の形なのだと思う。戦争や迫害による死がいかに非道なものかは、人は知ってきたのではないだろうか。

 

外出自粛が家族にもたらしたもう一つのものは、家族が皆一緒にいることによるストレスである。一緒に居られる時間ができて嬉しいはずなのに、そのことが家族間の軋轢を生む。狭い家の空間に家族全員が閉じ込められることに由来している。そもそも家とは家族が全員いる場所であるはずだし、家族は一緒にいることを前提とした絆である。しかし、家族は一緒にいない方向へ進んで行ったのが現代の家族の形である。父親も母親も子供達も、日中は家にいないことが当たり前だけではなく、家や家族作りの前提となってきている。それが外的な要求で皆が家で顔合わせて二十四時間すごすことになれば、ストレスが溜まるのは当たり前である。

以前に「性的他者とは何か」という論文で論じたことがあるが、家族はそもそも他者同士で作るのであり、家父長制家族でも、長男の嫁をとるということはよそ者が入ってくるということを意味していた。そのよそ者に家の血筋をつなぐ役目を託すのだ。よそ者同士のつながりを血縁関係にしていくのが子供の存在であり、夫婦は子供ができると互いを「お父さん」、「お母さん」と呼び合うようになる、舅、姑も、嫁がよそ者文化を家の中に持ち込んでくるのを意識していたし、事実、雑煮や味噌汁の作り方や煮物など料理の味、家族の習慣などは嫁の存在から変わって行ったのである。嫁いびりはまずよそ者いびり、よそ者文化排除であり、擬似血縁関係から嫁の意識を家の成員として本物の血縁関係に近づけるのはイビリではなく嫁自身の変容次第なのであった。しかし本来的に夫婦は他者同士だし、子供もまた、成長するに従って一人の個人、他者になっていく。

他者同士が一つ屋根の下で仲良く共存する知恵は、まず家族内の序列だったのであり、経済力の所有・分配、そして性的役割分担だった。現代家族では、それらがなし崩しになってきている。妻も経済力を持ち、自分で貯蓄や財産も持つ。性的役割分担は妻が働くようになって、大きく崩れてきている。家事育児は妻だけの責任ではなくなっている。夫は仕事で外、妻は家事育児で家の中、という役割分担と身体的距離の取り方の確保は、夫も妻も仕事で外へと出るようになって変容してきている。東京のように土地に限りがあり、家の中のスペールを広く取れない家族生活では、夫も妻もそれぞれ書斎を持てる場合は少ない。最近の潮流は個室の確保よりも、家族が集まって仕事も、勉強も、団欒もするような家の中の空間配備の奨励である。家は家族の思想だという建築家の考えはコロナ現象で変わるのだろうか。

他者同士の夫婦は年月を経るにつれて、身体的な接触が苦痛になったり、面倒臭くなったりする。それに従って心も離れれば家庭内離婚となるが、心はそれなりにつながっていても、寝室を別にしたり、一緒にいたがる退職後の夫を濡れ落ち葉とか産業廃棄物とかと揶揄することに共感を覚える妻も多い。外で働き生活費を家に持ち帰ることを通して夫の存在意義を示してきたのだから、それが一日中家にいて、料理も洗濯も子育てもできない夫は邪魔に感じられても仕方ないのである。夫の側から言っても、家では仕事場が確保できないし、邪魔が入るし、慣れない妻との会話も苦手になってきていたので、家にいることは苦痛なばかりであるだろう。

結局家族は他者の寄り合いであり、それぞれが皆一人でいる時間と場所が必要で、それを家の外、家族の外に求め、得てきた現代の家族人は、家からのリモートワークはできないのである。家は仕事場でも憩いの場でも、飯と風呂だけで成り立って居た楽園でもなくなっている。飯も作らなければならないし、風呂も掃除しなくてはならないからだ。

それは妻にとっても同じである。家事のアウトソーシングはすでに常識になっていて、会社やバイトで仕事をしない専業主婦も大いに活用して、自分の時間、家の外での時間を得てきているのだ。家族や家庭を維持する最低限必要な労働をアウトソーシングするのは、グローバル経済時代に、外国に食料や衣服、車や機械の部品、洗剤、そしてマスクなどの生産をアウトソーシングすることの、家庭という私的な場への浸透である。家族は経済的な理由や役割分担、世代的序列などで共同体としての構造が保たれる必然的な組織ではなくなり、個人が自由に行動できるための、身体的な共存の理由のない絆であり、精神的、感情的絆は、責任とは切り離して考えられるようになったのだ。家族の責任は、家という場での共存を必要としなくなっている。

日本では戦後の家父長制家族の解体と核家族化の進展で、家という家族のいる場の構成に関する考えも大きく変わってきた。夫婦の寝室、子供達のそれぞれの個室の必要性、働く夫と専業主婦の妻、夫の労働力の再生産、生命の再生産の場としての機能を果たせる構造を建築家と建築業界は大量生産してきた。しかし、夫の遅くまでの会社勤務、子供達の不登校や家庭内暴力の問題、妻のうつ病など家族をめぐる課題が深刻化していき、家族内のコミュニケーションの改善を、家の構造の見直しからも考えようとする動きは妥当なことだと思うが、家族の課題は、もうそんなことでは追いつかないほどの地点に来ているのではないだろうか。

 

今人間は記憶も感情すら自分の脳から、外部への記憶や記録をアウトソーシングすることをし始めている。それは自分の肉体をミイラにして永遠に残したいと願った古代人や遺体を宇宙船に乗せて地球の周りを永久に回らせたいと願う現代の金持ちと同じ発想である。コンピュータが脳の機能の外部への拡張だと考えるならば、このような発想は当たり前なのかもしれない。家族自身が自分たちの役割を外部へ、コンピュタの頭脳へアウトソーシングしていくときに、リモートワークの小さなコンピュタが家族の空間に入ってきて、ストレスで満たして行くのは、悪いジョークのようなものだ。

 


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