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水田宗子

幕間

いのちの起源と循環:産むことと現代詩―青木由弥子『星を産んだ日』

2021/03/9

シルヴィア・プラスについて書いていた頃、西欧の女性詩人が私の知っている限り妊娠や出産について詩を書いていないことに気がついた。そもそも女性詩人の数は多くなく、妊娠や出産経験をしている詩人が少なかったこともあるだろう。しかし、それ以上に、女性に限られると思われてきた妊娠や出産が、経験とともに、思考の対象としても男性の思考範囲には入っておらず、詩のテーマとしても、日常的、卑近な出来事である、という女性的、身体的な経験への無視と蔑視があったのだと考える。社会、国家、神について思考することが思想・哲学の根幹であり、妊娠、出産は女子供の、身体的経験として詩のテーマから排除されてきたのである。

シルヴィア・プラスはおそらく妊娠・出産を詩のテーマにした最初の詩人ではないだろうか。「三人の女」は出産経験だけではなく、流産経験も三人の中の一人のペルソナに語らせている。その出来事の前提には男性との恋、そして裏切りがあり、その「惨事」からの回復と新生への切なる希求が、テーマであると言えるだろう。その痛みと苦しみに、そして回復、生き延びへのあがきが身体的な経験として表出されているのだ。

出産のテーマと文学の関わりにつて考えた時、私が思い出したのは、ヘミングウエイの短編「インディアン部落」だった。インディアン女性の逆子の苦しい出産で、主人公少年の父親の医者が、麻酔なしの帝王切開をして赤ん坊を取り上げる。助ける。インディアンの夫は、出産に参加するという部落の習慣のためにその場にいたが、妻の苦しみに耐えかねて、自殺をしていた。生まれ出ることと、命を絶った父親との命の入れ替わりが、同じ場で行われ、そこには、苦しみを乗り越えて命を世に産み出す女性の身体と、他者の苦しみに耐えきれずに命を立つ男性の身体経験とが対比されてもいるのだ。帰りの舟の中で、手術の成功を自慢する医者の父親の側で、少年は湖の水の中に手を入れる。その暖かさに、いのちを感じるのだ。

この小説が、プラスの詩を介して、妊娠、出産と文学のことを考えた時に浮かんだ唯一の作品だった。他に思い浮かばなかったほど、妊娠。出産経験は詩や文学のテーマにふさわしくない、日常の、女性的な、身体経験と見なされていたことがわかる。1970年以降女性詩人は次第にその数を増し、女性経験と身体経験は、男性の頭脳経験との対比という図式から離れて、それ自体が、命の体験であり、実存の経験であることが、詩のテーマと題材になってきている。

最近私が読んだ詩集『星を産んだ日』(青木由弥子『詩と思想』2017)はだんだんと詩に表現され始めた妊娠、出産を扱った詩の中でも、深い思考と身体体験が一体化したいのちの起源への感性を見事なことばの表現へ結晶させている。

父親の死と子の誕生という生と死の、命の循環を、現実の目の前の、体内と外部をつなぐ身体経験として感じ、捉える感性が、詩集に納められた全ての詩に共通していて、いのちのありようが、その生まれるさまが、そしてその熟し終わっていく「時」の、手のひらに掴みきれない「感触」が、微妙な、そして時には、赤裸々な自然現象の中に感じられている。

 

雲が動いた

切れ間から陽矢が海を貫く

油凪の灰色の海

薄い皮膚の下で

たしかになにかが

再び

生まれ出ようとしている

(「陽矢」)『星の生まれた夜』)

 

命を感じる時にはペルソナの前には海が広がっている。そして木々の枝がしなやかに伸び、根が地を這っている。草叢が茂り、何かの気配があり、そして果実が実りだし、魚が産卵をしている。そこには命の起源としての自然の感触、通り過ぎていくものの、つかめない塊の気配と、やがてくだもの実となって確かな存在をあらわにするものの気配に満ちている。

 

 

海がふくらんでいく

うずくまっていたものが

ゆっくりと足をのばし雄叫びをあげる

通り過ぎる気配だけが吹き抜け

押し寄せる透き通ったかたまりが

私をのみこみあふれ流れ

 

―――――――――――

喉をうるおし身をやしなう

あなたの果実が

天をおおう枝の網目に

たわわに実り

夜を埋め尽くして

輝いている

(「くだもの」『星を産んだ日』)

 

果実の実りと魚の卵の塊はいのちの始まりの形としてその物体性を顕現化しながら、いのちの原型を表していく。魚の卵の塊は石榴の赤い実と等値化され、そのいのちの太古の姿と、その熟れゆく、機が熟しゆく、自然の経過が生まれ出る時と等価される。それは体内の、記憶の底の暗闇から光り出るものであり、夕闇へと沈む太陽の爛熟した赤色でもあり、生まれ出るものと消えゆくものとの循環を示唆しながら、その強烈な存在感を、前景化していく。

 

熟れきった石榴のような卵塊を

人肌のぬるま湯に沈める

赤い蜘蛛の巣を指先に受けて

半透明の卵膜から

好きとオタ粒をしごきとる

 

夕日の雫が生まれ落ちる

水中で回りながら沈んでいく

耐えきれず枝から落ちる

果物のような粒々

弾けて流れていく

オレンジ色のたまご

私の中の暗闇に落ちていく光

夜の海に落ちていく赤い月

(「回游」

 

この詩集には赤児を指で触り、腕に抱く皮膚の感触と、互いが応答し合う温もりと不安、また、自分の身体を突き抜けてやってきたいのちへの、驚きとその確かな存在感を、母体である自分、産むという行為を経た自分の身体との交感と距離の一体化した経験として表出する詩人の鋭い触手が偏在している。

甲羅を持たないままで生まれた無防備ないのちへの、神経の回収をまたぬ瞬時の皮膚の触手で受け止める繊細な母胎がそこにいる。それは身体ではあるが、森や草むらや海のある自然の中の一存在であることを感じている。これらの詩群は、揺らぎ、突き抜け、流れる曖昧ないのちの起源をかいま見せながら、その行く末を地球の自然を超えた彼方まで追っているように感じられる。極微な、目に見えない起源へ想像力と感性を誘っていく。

ここにはどのような理屈も説明もない。自らは触手を伸ばして無防備ないのちが生まれ、熟し、消える様と共にあろうとする、詩人の稀有な詩的感性と言葉が、その触手を身体を超えた大きな自然の中に位置付けているのだ。

出産の詩は少なくても、生まれた小さな存在、小さな命への愛をテーマとした詩作品は増え、むしろ現在ではメインテーマにもなっている。動物虐待を始め人間中心文化への批判、そして自然破壊、環境汚染とともに、生きものの命の循環を根本として成り立っている自然の循環の認識が深まってきた結果であるだろう。

震災と放射能汚染でいのちと自然が危機にさらされる経験は、人間が避難した後の空になった村や牧場を逃げ惑う家畜や放置された犬などのペットの具体的な映像で、人間の自己中的文明のを身近に感じる契機となった。

しかし、青木由弥子の詩は、そのようなことは一言も言わない。その表現空間は抱きかかえようとする手や腕を滑り落ちそうな、傷つきやすい生き物のいのちと、それぞれが生き延びようとする不安に満ちた場である自然への敏感な感性で、しかし光に満ちた空気で、満ちている。それが詩の魅力を、そして詩の言葉の力を読者の身体的感覚に伝えている。

 

水田宗子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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