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水田宗子

幕間

【連載エッセイ】アメリカ 再訪 2018 ➀

2018/09/19

1 )ロスからケンブリッジへ

 

 2018年8月、過去数十年間で初めて仕事ではなくアメリカに来た。大学を訪ねない、親族以外には誰にも会わないアメリカへの旅、2018年アメリカ再訪、一人になるための旅をするつもりだった。ロスも、サンタ・バーバラも、もうこれからは来ないつもりの最後の訪問としたかった。

 8月8日、ロスからマサセット州のケンブリッジへ行った。暑く乾いたロスから雨の降る涼しくしっとりとした東海岸の街へ。ロサンゼレスからケンブリッジへ来るとここが別世界であることをすぐに感じる。天を衝く大きな樹木が街並みを形成しているだけではなく、それが森林の延長であることがわかる。街が森林の中へ入っていっているのか、あるいは森が街まで迫っているのか、とにかく夏のケンブリッジは濃い緑に覆われている。砂漠の砂がそこまで迫っている乾いたロスの街との違いは皮膚がすぐに感じ取る。

 しかし別世界だと感じるのは自然と気候の明らかな違いだけではなく、そこが白人の街であることを感じるからだ。ロスは実に多様な人々、人種的にも、民族文化的にも、そして言語においても、単一性を欠いたところに成り立っている街だ。自分が誰であっても構わない気になる。ところがケンブリッジ、そしてコンコードやベルモントに行くとそこは全くの白人の街であることに驚いてしまう。街を歩いている人たちばかりでなく、どの店に入っても店員は皆白人なのだ。

 ロスとケンブリッジを比較すること自体が的を外れているかもしれない。比較するならロスと、ニューヨークでないまでもボストンなのかもしれない。しかし、私が違いを感じるのは、UCLAのある街とハーヴァード大学のある街なのだ。長年海外に行くときは大学を訪れることが仕事であり、習慣となっていたので、大学と街との関係はいつも大きな関心となってきたし、城西大学のためにも、私の重要な課題と思っていたのである。1961年にイール大学に留学した時も、大学とニューヘイヴンの街との関係は決して良好ではないことが表面的にも明らかになり始めていた頃だった。理事会及び大学運営管理職、教授のほとんどは白人で、まだ男子校だった頃だから学生も男性ばかり、黒人学生は数人程度、しかもスポーツ選手が主だったと思う。しかし、ニューヘイヴンの街には多くの黒人やアジア系の住民がいて、大学の清掃や建物の修理などに従事する人たちには有色人種の人たちが目立っていた。

 とにかく1961年である。これから黒人解放運動、女性解放運動、反ヴェトナム戦争運動などが起こって来る前夜で、一方でヒッピイー、性解放、麻薬の普及アメリカの緑化運動など、カウンターカルチャーの波が押し寄せようとしていた頃なのだ。ニューヨークに近く、落ちついた知的な街というイメージが定着していたニューヘイヴン、ジョナサン・エドワーズの伝統を誇るインテリの街として知られていたこのイエールの街は、実はその深部に社会問題と人種・ジェンダー差別を抱えている街であることが露見しつつあった。そしてそれはアメリカのどの大学街にも言えることだったのではないだろうか。南部では黒人を大学に入学させなかったり、アイヴィーリーグの大学も男女共学ではなかった時代が大きな揺らぎをもって終わろうとしている時だった。その頃の私はまだ若くて、アメリカへ来たばっかりで、自分のことで精一杯だったが、フォークナーや南部作家を研究するのになぜイエールを選んだのかと聞かれたことがあり、その時疑いもなく教授で大学選んだことに、そうか南部に住むことを考えなかった、と思ったことを覚えている。

 あれから何十年も経った。アメリカの大学はその意味でも様変わりをした。コンコードやベルモントという郊外に比べてケンブリッジ・センターやハーヴァード・スクエアに行けば、それなりに多様な人たちに出会う。夏の大学キャンパスはサマースクーに来る年齢が様々で、国籍も多様な履修生・学生たちで賑わっている。教授たちも他の大学から教えにくる人もいて、実験系の学部や研究所、アドミニストレーションもフルに運営活動をしていて、活気がある。ケンブリッジの街の古い建物は大学が所有して研究所などに使っているものが多く、街と大学は入れ子のように混じり合っている。しかしそれもあるところまでで、ケンブリッジの中心に近い大きな樹木が立ち並ぶ高級住宅、つまりマンションがそのままに並ぶ界隈は、ニューイングランド・ブラーメンの住む地域で、その伝統的な、昔のままに保存された建築スタイルに圧倒される。文化遺産そのものなのだ。

 イエール留学時代から私はもう何度もハーヴァード大学を訪れている。昔の夫がハーヴァード大学出身で、ハーヴァード/イエールのフットボールの試合には毎回ケンブリッジへ連れてこられた。彼はバンドでピッコロを吹いていたのである。子供達も三人がハーヴァードで学んだから、入学時や卒業式などには毎回出かけた。最近は息子の一人が夫婦で教えているので、彼らを通して大学や研究所の教授、そして運営の役職者とも個人的に親しくなった。大学は6年もいたイエールよりもむしろ馴染み深いくらいなのだ。しかしケンブリッジの街がニューヘイヴンより身近に感じられるかというとそうではない。記憶の中のアメリカの街はまず第一にニューヘイヴンなのだ。自分なりにニューへイヴンの隅々まで知っているように思っていたし、今でも風景が蘇ってくる。

 きっとそれは自分の日々の生活の場だったというよりは、自分の内面的な成熟と深く関係しているからではないだろうか。60年代のアメリカの変容と私のアメリカ体験が重なり、そしてアメリカ文学でも限られた作家の限られた作品を読んでいたことから、アメリカ社会と歴史の現場の只中に放り出されて、自分で理解し、消化しなければならないことだけではなく、自分の問題として向き合わなければならないことが、この街で起きたからではないだろうか。記憶の中のアメリカの風景にはいつも私が、私のように見える人物が、立っている。そこには私の影が見える。それはどの場所の風景でも同じなのだ。

 その風景はニューヨーク、チャパクオア、リヴァーサイドと広がっていくが、ボストン、そしてケンブリッジはやはり他者の街であり続けている。他者と言っても、シルヴィア・プラスやアン・セックストン、ホーソンやポオと、分身のように思って来た作家たちだから、その距離は微妙だ。それでも私の街ではないのである。この感じを改めて持ったのは今回のケンブリッジ滞在の初日が、ケンブリッジのロングフェロウの家、ついでコンコードに『若草物語』の作者ルイザ・メイ・オルコットの家を訪ねたからかもしれない。

 『Little Women』は少女小説の代表的な作品で私も夢中になって読んだのだったが、今はどこかでジェーン・オーステインの『Pride and Prejudice』と一緒になってしまって物語がよく思い出せないでいた。孫娘たちが面白かったというので、今回訪ねてみる気になったのだ。作家の家はロンドンにいた頃はよく行ったものだったがアメリカではあまり記憶にない。覚えているのはポーの家をボルティモアとフォーダムに、フォークナーの家をミシシッピーのオックスフォードに、ソローのウオールデンの小屋、ホーソンの「Seven Grables」の家、エマソンやホーソンのコンコードの家、永井荷風が住んだミシガン州カラマズーの家、サダキチ・ハートマンのメランゴ・インディアンリザーヴェーションの中の小屋などだろうか。アメリカには長く住んだ割にはあまり国内を旅しなかったからかもしれない。

 オルコットの家は私がイエールにいた1961年から1966年までの6年間の、正確に言えば5年半の時間を蘇らせた。当時私が深く憧れながらもどこかで距離があったエマーソンをはじめとする超絶主義の世界、ポオやメルヴィル、ホーソーンが反発を感じた知的エリートの世界がそこに現実として存在しているように感じたのだ。アメリカ社会と実存そのものの持つ、ハリー・レヴィンがいう「dark power」を無視するナイーヴな学者気風の人たちと。(Harry Levin:The Power of Darkness: Hawthorne, Poe Melville)。大学ではコールリッジを学んだ私は、彼がアメリカにユートピアを作ろうと考えていたその延長に超絶主義を置き、東洋の思想との接点を西洋のロマン主義思想に見ていたが、同時にコールリッジの目に見えぬものへの、心と文化の深層への想像力の延長にポオをおいてもいたのだった。

 りんご園に囲まれていたので「果樹園の家」とも呼ばれるその家は、『若草物語』の家というよりは父親のオルコットの家と呼ばれるべきだった。そしてその家はアメリカ研究初期の私の幻影を蘇らせたのだった。しかし、その時はエマーソンやホーソン中心で『若草物語』には興味がなかったのだが、今回初めて訪れてみて、そこに女性を中心とした家庭が営まれていたことや、娘たちの成長と家が無視できない関係を持っていることに改めて考えを刺激されたのだった。教育者の父親の女子教育実践の場でもあったのかもしれない。

 

~つづく

 

 

国際メディア・女性文化研究所「ニュースレター」より

 

 

 


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