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水田宗子

幕間

2017/08/6

平田俊子さんの「揺れるな」の朗読を聴きながら、ふと幸田文の「崩れる」というエッセイ集のことを思い出した。前にもこのエッセイ集についてはどこかで触れたことがある。これまで「剥ぐ」、「解く」、「ほぐす」など現象学的な身体感覚で詩のテキストの世界が構成されることが多いことに関心を抱いてきたが、「揺れる」から「崩れる」へ連想が伸びたのは当然だったのかもしれない。激しく揺れれば崩れがそのあとに来るだろうから。幸田文の文章は日常生活の、中でも家庭の中の暮らしの細かい一つ一つの行いを書いていくことを通して、生きることの本質に触れていくその手つきが、 つましく、鍛えられた家事を切り盛りする手さばきと同じような平坦さと根気ある繰り返しと重なって、大変魅力的で奥深い。その幸田文が、まるで憑かれたように、地崩れを起こした場所の、その惨事の痕跡を求めて訪れていくのだ。

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