ページトップ

水田宗子

幕間

歴史と表現(4):移動する身体と止まる身体

2022/01/20

歴史と表現 4

 

移動する身体と留まる身体

 

 

随分と昔の話であるが、1960年代のアメリカの大学では、大学院の所定の単位を取得した学生が論文を書くためには資格試験を受け、また、論文についての趣旨や方法などに関してのプロスペクタスを承認されなければならない、というのがほとんどの大学院で制度化されていた。それぞれの大学院によって、異なっているが、イエール大学の大学院では、口述試験もあり、教授たちからの質問に答えなければならなかった。その時の質問の一つに、歴史文学を定義せよ、ホーソーンの「緋文字」は歴史小説か、フォークナーのヨークナパトファ物語群はどうか、というのがあった。

 

私はその前に都立大学の大学院の入学試験で、ユートピア文学について書けという問題が出て、のちに自分の答えを検討する中で、歴史との関係について考えていたので、イエールでの質問はあまり唐突な問いのようには思えなかった。しかし、具体的に『緋文字』が歴史小説かと聞かれると、答えはyes and noで、歴史文学を定義しても、緋文字がそれにきちんと適合する小説なのかどうか、解釈をひねりださなければならない。なんといっても若い大学院生の私の知識は限られていて、この問いに対する答えも、それ以来、ずっと考え続けることになった。

 

『緋文字』は、アメリカの歴史で清教徒の街として名高いSalemの税関に努める作者らしき語り手が、古い資料の中にAという文字が書かれた胸当てを見つけて、その背後の物語を探求していくことからはじまる。Salemは魔女狩りの街としても有名で、数多くの女性が魔女と言われて火あぶりになった、おぞましい歴史を持つ街でもある。アーサー・ミラーの1953年の演劇Crusible(るつぼ)は、Salemの魔女狩り裁判を描いて、当時猛威を振るったアカ狩りのマッカーシズムを批判したことで、長い歴史的時を経てSalemが新たに脚光を浴びたばかり時でもあった。

 

マッカーシズムによる大規模な反アメリカ主義の弾圧の時代、アメリカニズムという観念の元に、異常なまで陰湿で粘質的なよそ者への偏見と差別、排除と処罰への執念が人々に恐怖心を抱かせ、友人を裏切ることを迫られる極限状況を作り出していた時代が、魔女狩りの、正義と正当化の理論で自己の宗教政治制度を守ろうとする残虐な魔女狩りと重なって描かれることに、多くの読者が共感した。口述試験では、『緋文字』の主人公へスター・プリンが、子供まで作った恋人で牧師のディムズデールを、一緒に街を出て逃げようと誘う森の中の逢引の場面の解釈も求められた。牧師を性的に誘惑して、さらに牧師としての任務を捨てさせようとするへスターは魔女なのか、ファム。ファタールなのか、という問いも含まれていたのだろうと思う。

 

物語はディムズダールが自らの罪を告白して死に、へスターと子供は、街を出てその後の居所は不明のままだという結末だが、その間へスターの夫のチリングワースが、彼ら二人の心を揺るがせて破局へ誘う、悪魔サタンの役割を果たしている。このアメリカ文学史上の古典であり、近代文学の傑作でもある作品は、アメリカが清教徒の宗教国から、民主主義主義の国へ進展していく過程の物語であり、牧師が、共同体の、普遍的な「父」と、ヘスタ―と子供のいる家庭の父であることとの間で苦しむ、多分に歴史的な変容と推移の背景の中で描枯れる小説でもある。

 

へスターが魔女であるかどうかは、解釈の重要なポイントと見ることもできるが、へスターが、ピューリタンという思想と規範によって形成された共同体を離れて、その外へ出ていくことを志向する女性であることは明白で、その共同体の性規範を逸脱して移動する身体と恋愛する身体、子を育てる身体が、一体化していることが大変興味深いのである。

 

一方フォークナーも南北戦争に敗れた南部の社会が、奴隷制度によって維持されてきた荘園農業経済と封建的家族制度が解体されていく歴史的変容の過程で、頑なに過去の世界に生きる人たちを描く。その中で、『エミリーのバラ』のエミリーは、へスターとは対極に位置付けられる「動かない身体」、「留まる身体」である。

 

愛した男が裏切りをしたことを知る近い、ホラーストーリの主役である。彼女は、生まれ育った家を一歩もでることなく、家に男を殺して引き入れ、そこにとどまり続ける。どのような歴史的変化も社会的な変容も受け入れず、個人の世界の外に出ようとしない、変化を拒む「動かない身体」である。

 

へスターもエミリーも恋愛する身体であるが、へスターは産む身体でもあり、新しい時代の中へ愛する男性に過去を捨てさせても出て行こうとすのに対して、エミリーは新時代のメッセンジャーである北部の男を、古い家に引きずり込み、共に白骨になるまでそこに留まる「産まない身体」である。子供を通しての未来はそこには存在しない。

 

「産む身体」、「産まない身体」という身体の記号化はこれまで女性の性、セクシュアリティを「産む性」に規範化した上で、分断し、対立させる、差別の概念を表象している。

 

「移動する女性」というタームは、この「産む性」、「産まない性」という分類、女性の性の分断を、異なる分類で撹乱し、なし崩しにする概念である。これまで、移動する女とは、結婚して家庭に定着しない女性、家父長制家族の形成する共同体に定着しない女性を意味した。家と共同体を離れて「外地」へ移民として出て行く女性、共同体の外へ周縁化され、追放され、あるいは自ら共同体の治外法権へ出て行く女性、放浪する女性像として用いられてきたが、移動する女も産む女であり、家庭内、共同体内に定着する女にも、産まない女もいる。山姥で表象される「山」に住む女には子連れも多く、生き残りの力強い身体を持っている。

 

移動する女はいわば、里、野、山のトポス概念を用いるなら、共同体である里を出て、里の性規範が及ばない野や山に出て行く女性ということができるだろう。野や山に住めば里の掟は及ばないが、同時に保護もされない。野に住む女は、里と様々な接点を持ち、経済的な交渉関係にもあり、その生存を多分に里に補完する役割を果たすことが多い。

 

へスター・プリンもまた、街=里の外に追放された女だが、助けが必要な里の人々を世話し、介護することで街=里の存在を助けている。胸に貼られた緋文字は、彼女が街に住む女ではなく、その境界線の外に住むが、役に立つ限りは一時的な出入りも許されている女であることを公に示す印なのである。野はへスターのように追放された女が住む「外部」なのである。

 

小説『緋文字』でへスターが、愛する牧師のディムズデールと森で密会をし、一緒に逃げようと誘う場面は、野のはずである。恐らくは人に見られることのない、森に隣接する野の奥深くの場所かもしれない。しかしそこはサタンの住む森ではないはずである。へスターの誘いは、共同体の宗教的な「父で」あることを捨てて、一家族の個人的な父になってほしいという願いなのである。共同体の人々に宗教的、思想的な責任を果たすが、それだけに揺るがない権威と権力を有する大文字の父から、一介の、一人の男として、妻と子供の小文字の父となることを、それが幸せであると説得しようとしているのだ。

 

19世紀半ばから急速に進む、フロンティアの消滅、そして、宗教的ではない共同体としての民主主義アメリカの建設にとって、家族こそが、価値の源泉とみなされる民主主義の礎とされる時代が到来してきているのである。メルヴィルの『白鯨』における海と白鯨が象徴する自然=野性の消滅、そして海よりは陸への定着という、思想的、価値観的変容と歴史的展開が、『緋文字』のヘスターとデイムズデールの対立であり、二人の価値観の分断は歴史的な流れの中で起こっているのである。

 

名前のごとく、二つの間を揺れ動き、「曖昧な」牧師は、罪を公に告白して死んでしまい、二人の相反は、古い父の死と、「不倫」を自由な個人の恋愛だと主張する女が街の外に出て行く、移動する女となることで、解決をする。シングルマザーとなって自立し、家への定着を拒否するへスターは、男女平等が進むアメリカの象徴でもある。

 

移動する女を主人公とする林芙美子の『浮雲」は、19世紀のアメリカ小説『緋文字』とは異なって、「移動する女の身体」が、性規範を逸脱した女として処罰される小説である。この小説の女性差別構造は有島武郎の『或る女』の構造と同じである。この二つの小説の主人公の女性は、家庭からその外部へ、そして、『浮雲』では屋久島という日本国境界の僻地の島へ、また『或る女』ではアメリカへと移動して行くのだが、そこで、子宮の病気になり死亡する。彼女たちの居場所は里にはなく、里の外へ自分の思う自由を求めて移動する女は、子宮という女性の生殖器を侵され、生き残ることができないのである。移動する身体の生き残る場は、野でもなく、その果ての山にしかないだ。「移動する身体」は「産めない身体」として規範化にはめ込まれているのである。

 

ヘスタープリンが、自分のアイデンテティとして、積極的に胸に貼り付けたAという、共同体が追放者として刻印した記号が、姦通という忌まわしく、毒々しい記号から、異なった価値と意味を発信する可能性を示唆する曖昧な刻印に変容するのに反して、共同体の性規範からの逸脱、共同体から外に出ることが、「産めない身体の女」として刻印され、処罰されるという露骨な女性のセクシュアリティへの差別を、悲劇として描く作者の思想と想像力は、アメリカ小説から1世紀遅れたとはいえ、戦後社会の歴史的流れを見据えた反逆の「悲劇」として感動させられる。

 

へスター・プリンは恋を失ったが、自由を手にした。追放者の居場所、野は、自由への出口となった。場所とはそういうものなのだ。トポスとしての意味は、記憶として文化の中に生き続けるが、それゆえにこそ、場所は逆転の契機をはらんでいる。それが歴史的に見るという視野のことであり、歴史小説は同じ題材で、書き直され、書き換えられていく、連綿と続く記憶の体積の言語化なのであるだろう。

 

 

 

 

 

水田宗子

2021.12.22

 


SNSアカウント