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水田宗子

幕間

歴史小説:歴史と表現(3)都市

2022/01/20

 

2014年ノーベル賞受賞者のパトリック・モディアーノ(Patrick Modiano)の小説の世界は「人探し」の世界である。イタリア系ユダヤ人の父を持ち、フランスで育ったモディアーノは殺戮収容所に連れて行かれたユダヤ人を親族にも、そして両親の友人、知り合いにも多く持っている。戦争後収容所が解放された後は、生死がわからない人が多く、「人探し」は戦後世界を生きる人たち、戦争と虐殺を生き延びた人たちの実存状況と言っていい。どこかに隠れているに違いない人たち、逃げ延び、生き延びて、どこかの町の片隅に、名を伏せ、過去を消して、ひっそりと暮らしているに違いない人たちを探し出すのは、生き残った人たちの役目である。

 

日本の戦後も同じだった。外地から引き上げてきた人、戦地から帰ってきた人、空襲で散り散りになったままの人、捕虜になった人やシベリアへ送られた人、行方知らずの人たちを、親族が探し回ったのである。ラジオの「尋ね人」は日常よく聞いたし、新聞の尋ね人欄は、戦後いつまでもあった。

 

東京は戦後すぐに闇市ができ、身元のよくわからない人たちが集まったり、暮らす場所ともなった。身元がはっきりしているということは、戸籍の問題だけではない。戦争を生き残った人は、どこかで心の傷を抱えている。尊厳を傷つけられた傷、後ろめたいこと、隠したいことを心のうちに抱えていて、できれば、語らず、人知らず、自分の存在を隠して、今をしのいで、現在を生き抜きたいと思っている人もいるはずだった。

 

モディアーノのノーベル賞受賞小説は、私立探偵事務所に努める男が、人探しを頼まれて、パリを探し回り、様々な、名も知らない人々の、隠されていた秘密=真実を知っていく話である。殺戮収容所へ連れて行かれたユダヤ人の少女を探す作品もある。モディアーノの世界で興味深いのは、パリという都市には、様々な裏通りや、安ホテル、下宿屋などのある地域が、パリの発展から取り残された場所として残っていることだ。パリの中心地や高級住宅街は、整然とした道路に、番号がついている建物が並んでいる。家を探すのは苦労がないが、それだけに、人が隠れて住むには適していないのである。

 

ゴダールの映画を見ても、そのような身元を隠したい人たちが住めるような、ごみごみとした場所があることがわかる。ジャン・ギャバンの世界でもおなじみである。アメリカ映画ならば、フィルム・ノアールの世界がそれに当たるだろうし、香港ならば、有名な九龍城があった。大都市とは、アンダーグラウンドとまではいかないまでも、そのような隠れ場所を内包する場所なのであった。

 

 故郷を捨て、家を出たものたちは、都会ならばどこか行き場所、暮らし場所を見つけることができた。国外へ脱出するまでもなく、都市の中に、身を隠して生きる場所が、残っているのが大都会、近代メトロポリスなのである。移民、難民、亡命、ディアスポラの大規模な出現は二十世紀の世界的惨事の結果であるが、犯罪者や家出娘、息子だけではなく、スパイや革命家、暗殺者も名前や身元を隠して生きる場所があったのである。

 

モディアーノの人探しは、ユダヤ人たち、中でもあまり有名ではない芸術家やその恋人、家族など周辺の人々が、散逸し、それぞれが生き残るために少々いかがわしい世界に引き込まれていく話が多く、胸を打たれる。モディアーノ自身の父親もその一人らしい。綺麗事で立派に居残る術などないことを思い知らされるのである。小栗康平の『泥の河』の世界だ。

 

女性の居場所が、家庭内に限られていて、留学、移民、写真花嫁を除けば、女性が自由に海外へ移住することがほとんど不可能であった近代日本で、東京に地方から出てきた作家志望の女性たちにとっては、下宿暮らしが唯一の居場所であった。良家の女子は、兄の下宿、親戚の家が上京後の住み場所であったが、それも女性の自由を可能にする居場所ではなかった。林芙美子の『浮雲』の主人公の、東京へ、そして植民地ベトナムへの脱出は、同じ反逆と脱出のトポグラフィに位置付けられる。

 

 近代における女性の家制度からの脱出を考える上で、居場所(=トポス)の持つ意味は重要である。西欧モダニズムは、芸術表現の権威の場であるパリから離れた、いわば文化的僻地から来た芸術家が、その台頭に前衛的な役割を果たした。パリはそのような周辺地から来た外国人の若く無名の芸術家が住める場所がどこかにあった都市でもあったのである。アメリカからの亡命者ガートルード・スタインがそのような若く無名な芸術家や作家の集まるサロンを持ち、戦争後の国籍離脱者や身元不明なはぐれものの貧しい芸術家や作家の居場所となっていたこともよく知られている。

 

東京もその役割を果たせる都市であった。作家や詩人、画家を目指す女性の多くは、地方都市から脱出して文化の中心地、東京へ来た。東京はさらに外国との接点であり、外地への出口でもあった。地方都市、東京、海外植民地=移民のコミュニティの三場所は、新しい女性表現にとっての不可欠なトポスとして存在したのである。女性作家の家からの解放は、地方都市というマイナー文化拠点からの脱出に見られる。閉鎖的な家父長制家族の文化が強い地方都市からの脱出は、東京へ、西欧文化へと向く移動のベクトルを示している。

 

脱出する、移動することを通しての居場所の探求は、抑圧や差別からの脱却を目指す表現者の必然的な道であったのは世界共通である。植民地時代、そして、戦後のポストコロニアル世界では、脱出と移動は、女性表現を可能にする唯一の実質的な道であった。

 

男性の中央へ向かっての移動は、大学教育と将来の社会的地位を約束する道であり、ホモソーシャルなエリート共同体の一員となる道であったが、女性にとって東京は、そのような機会を提供する場ではなく、共同体の一員になるには結婚しかなかったのである。それは家への再度の封鎖でしかない。

 

 移民のコミュニティという国内の「外地」も、多くは都会の中に、というよりはその外れあたりに、作られてきた。それは文化の僻地であるが、文化・政治の中心としての東京からの脱出先であったことが、地方都市と大きく異なっている。都会の「僻地」は、国家権力と文化伝統の権威と抑圧から自由なノーマンズ・ランドでもあったのである。

 

外地の、都市を中心とした非農民移民コミュニティ、つまり、ディアスポラ集団の居場所が形成されていく過程は、アメリカやフランスにおけるユダヤ系文学・芸術、アジア系文学の展開する場の形成と同じ位相を有している。そこは自国語の新聞、文芸雑誌というメディアが形成されていき、脱出者に居場所を提供する場となっていく。アメリカでイエディッシュ呉の文学が書かれた背景である。

 

都市には当然貧民窟があり、産業革命以後、日本では明治以降は、日雇い労働者が苦しい労働と低い賃金で木賃宿に寝泊まりする場を形成していたし、地方出の労働者だけではなく、貧困から抜け出せない、「長屋」に住む家族も住んでいた。

 

 東京は、単一な場所ではなく、常に外へと広がり続ける場所であった。新しい歓楽街、住宅街、そして文士村が、中心から外へ向かって環を描きながら広がっていく途中の、「移動する都市」なのである。関東大震災後は、住宅地が郊外へ移っていき、新しい歓楽街や商店街が、郊外方面へできていったのである。

 

そこでは、地方から上京してきた人たち、アナーキストや貧しい芸術家や作家たち、そして社会規範と権威からの「はぐれもの」の住む場所が、発展から取り残されていくところ、例えば、浅草、上野、谷中にできるていき、女性の不正規労働者として働く場所と家を持たない女性たちが、借り部屋暮らしができる界隈ができてくる。林芙美子や尾崎翠、また、プロレタリア作家たちが住んだ上落合、下落合界隈は、振興歓楽街の新宿に歩いて行かれる距離にあった。田端から、馬込、高円寺と、作家村ができていくと同時に、未だ畑が広がり林が残る世田谷、杉並の郊外へと都市サラリーマンの住宅街が広がっていったのである。作家の居場所と近代都市、東京の形成は深く関わっているのである。

 

作家の長谷川時雨や田村俊子が生まれた浅草、日本橋地域は、「山の手」である帝国大学、一高のある本郷台地、博物館のある上野台地から坂を下った谷間に当たる寺町で、昔から住み着いている商人や職人たちの庶民文化の中心地である「下町」であった。隅田川に近いために、セーヌ川の左岸を真似たサロンを詩人や画家が集まって形成していたことで知られているが、一高、東大のある「山手」に住む医者、学者、弁護士など知識人の住む場所から見れば、近代都市発展に取り残されていく、モダンではない「下町」である。夏目漱石や森鴎外は団子坂、道玄坂の上の方に、反対に樋口一葉は、漱石が『門』を書いた本郷台地の奥の西片町を植物園方面へ急降下した低地の、当時はあまり「陽の当たらない」丸山福山町に住んでいた。

 

同じように、東大前から低地へ下がる坂の始まるあたりの森川町には、多くの下宿屋や旅館が作家たちの仮住まいを提供する場を作っていた。石川啄木、今東光、林芙美子など実に多くの作家たちがその界隈に一時は住んだのである。

 

他方、東京生まれの宮本百合子、平塚らいてう、円地文子は、学者や官吏、建築家といった知的中産階級の出身で、田村俊子と長谷川時雨は商人の出身である。その違いが山手、下町の住む場所に象徴的に表されていることは興味深いが、男性に反して、女性作家には山手の住宅地への上昇移動の道は、結婚以外に拓けていなかったのである。

 

 昔の東京、戦前や敗戦直後の東京は、上京してきた無名の芸術家や作家、地方出の働く女性、「はぐれもの」が隠れるように生きる場所として好都合な、裏通りや片隅、安下宿などのある界隈を持つ都市となっていったのであるが、其の名残りは、戦後の都市計画、都電廃止、道路拡張、高速道路建設、地画整理や町名変更、高層建築化。郊外の団地建設、スパーマーケットなどで、年々なくなっていき、現在では、東京の記憶取り戻しも、なかなか困難な状態にある。

 

それは戦後の現象だけではなく、軍事政権による管理体制の強化によって、家を出た女性やはぐれものの居場所の消滅が急速に進むのが一九三〇年代半ばからである。それは田舎から働きに出される若い女性が、働きながら生活する場としての(住み込みのお手伝い)、都市中産階級が、戦争が深まり、男性が戦地に引き出され、統制経済の進展に従って、減少していく過程でもあった。東京は次第に、全ての住民が管理体制に置かれる、「はぐれもの」や兵士にもなれない、子供も産まない「役立たず」の一人暮らしが困難な場となっていったのである。

 

そもそも戸籍制度は日本や中国特有の管理体制であり、国民が国土内に隠れて住めないようにする法制度である。神社と寺とともに、生死、結婚、家族の追跡ができるための制度なのである。例えばアメリカでは、社会保障制度が国民の管理、追跡を可能にする制度であるし、コロナ感染者の居場所や濃密接触者の追跡や、ワクチン証明書、マイカードシステムの導入が、国民の安全という見地から、「はぐれもの」が住めないような体制作りを目指すものだ。

 

私は東片町、西片町、森川町と本郷界隈に住み続けてきたので、この一帯は焼け残った街にもかかわらず、その変貌ぶりには日々驚いてきた。大学を卒業して、アメリカへ留学した時には、西片町は番地がい ろ はに分かれてついていて、西片町10―ろ−17などという番地だった。夏目漱石が『門』を書いたのは、西片町10―ろー7という番地の家で、現在は、自宅の近くなのに、番地をたどってはすぐに見つからないのだ。オリンピック以後は、町名も番地も整理されて、その上今はグーグルマップもあって、番地を頼りに場所を探すのが大変容易になった。その代わり、どんな家に住んでいるかも検索すればすぐにわかるようになった。プライヴァシーは著しくなくなったのである。

 

助けが必要な人たちが見えなくなっている状況や、病気の高齢者、取り残されてしまう子供達がかくされてしまうことも、都市の厳しい特徴で、どこに誰が住んでいるかが分かる制度ができれば、それだけ安心が増す。ひとりひとり、隅々まで管理される社会と、どちらも、居心地は良くないだろう。ニューヨークも、ロンドンも、パリも、同じだろうと思う。

 

パリではモディアーノの小説にも出てくるユダヤ人の革命家たちが住んだホテルに泊まったことがある。また近年、通りの角ごとに監視カメラがあるロンドンの街を歩いて、ヴァージニア・ウルフの家を、そしてシルヴィア・プラスとフロイドの家を見学した。住んでいた人たちはもういないが、家という物体は残っている。それらは歴史の何を表現しているのか。個人の痕跡が聞くとなり、また歳の記憶ともなる媒体は、家や道、や界隈というトポスであり、それは、訪れる人、返ってくる人と、歴史をつなぐ関係の場としてあるのだと思った。

 

 

終わり

 


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