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水田宗子

偶感

花梨を漬ける

2020/12/18

新井高子さんが秋の終わり、冬を迎えるお仕事の「冬漬け」で花梨の蜂蜜漬けをすると聞いて、様々な思い出が蘇った。私が小さな庭に大きな木になる花梨を植えたのは、城西国際大学の大学院生たちが、自分たちのジャーナルを作るので、序文を書くようにと言われて、その題名が『かりん かりん』だったからだ。その意味を聞くと、果実の花梨で、中国の人はそれを蜂蜜漬けにするという。

 

庭に植えるとすくすくと大きくなり、やがてこれも大きな実をたくさんつけるようになった。花梨は大変硬い実で、庭に立ったり草むしりしていたりすると、上から落ちて来て肩や頭に当たったことが何度かある。石が落ちて来たみたいに痛くて、実に攻撃的な果実であると思った。落ちるときは堂々としている。土に落ちてからも、そう簡単には腐らない。気が付いた時に拾っても、皮はつやつやと滑らかで、一秋中ほっておいても見た目は少しも変容しないのだ。虫も食わない、鳥も啄ばない、味も悪いから大量生産や消費にも向かない、と自然の循環にも、商品流通にも、目立って貢献しない頑な果実、我が道をいく単独者で、自分一人輝いている、人のためにお役に立ちたい、などと存在理由を弁明したりしないのだ。

 

そう思うと、蜂蜜漬けにする他には使い道が思い当たらないこの花梨を、なんともすごい果実だと思うようになった。そして蜂蜜漬けにするのがやめられなくなった。

 

ヴィクトル・エリセの『マルメロの陽光』は、花梨の木と実をずっと写し続ける。花梨を描く画家が、季節が移り変わる時間の流れの中で、実が熟してしまい、絵を描き終わることができない。それでも毎年描き続けるという、少々見るのがきついところのある映画だが、それでも、もう何度も見続けている。花梨の実は強情だが、時間には逆らわない。描けないままにそれを繰り返す画家とその画業について、時間との関係について、見るたびに心を痛めながら、その、細々とした準備の一つ一つの映像から、毎日夕方までキャンパスの前に座り、次の日また花梨の木と果実と向かい合い描き始める、その日常的な繰り返しの時間の流れ、そして結局は、果実は自分の時間を過ごし終えて、人には構わず変容し、熟し、朽ちていくという自然の大きな時間の流れの中に、植物も人間も、そして、表現したいという芸術家の心も行為も、飲み込まれている、というその作品に、引き込まれて、とりつかれるように何度も見てきた。

 

映画の中の退屈な毎日の時間の繰り返しと、結局は無償に終わる描くという行為に、緊張して付き合い、思考も感性も刺激されるという作品は他にないような気がする。映画は画家の夢で終わるが、私も映画を観た後はいつも夢を見ているような気がして、後になっても花梨の際立った黄色、そこに陽光が当たると輝く滑らかな果皮がくっきりと蘇ってくる。

 

中国の人たちは実に多くの果実からお酒や蜜漬けを作る。乾燥果物も、種も食べる。

 

日本では梅干しや梅酒、生姜の蜜漬け、干し柿などは一般的だが、そのほかは毎年手がける人は周りでは少なくなった。中国の農村が今でも広域に存在するのに比べて、日本では農村がますます縮小していっていることも関係があるのだと思う。私は東金と鴨川キャンパスにヤマモモの木が多くあることから、ヤマモモ漬けをし、千葉県のどこの家でも大抵は木がある夏みかんを色々工夫して食生活に取り入れてきたが、花梨の蜂蜜漬けが一番長く続いている。食べるぞとこちらも意地になっているのだ。


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