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水田宗子

偶感

本という物体

2021/03/9

昨年秋に詩集『音波』と評論集『詩の魅力/詩の領域』を一対の本として出版した。長年信頼してきた編集者が同じアーティストの作品二作を表紙にして、二冊を同時に読者に届けることを考えたのだ。スエーデンのアーティスト、エヴァ・ヴァリエさんは韓国や日本の古紙を使って彫刻するが、文字が書かれていたり、タンスの内装に使われてきたりした、使用済みの古紙を細かい糸にして、素材としている。色彩は白と黒が基本だが、紙の質によって、実に多くのヴァリエーションが出てきて、どれもが同じ色でも手触りでもない。そのシンプルで、しかし奥行きの深い味わいは、日本文化の真髄を表しているようにも感じられるし、それが、日本を超えてアジアの真髄を見直すことへも導いて行って、ただの古紙を、素材としても、また、それによって成り立つ作品をも、広いコンテキストの中に位置付けていると感じる。同時に、シンプルに徹する色と形が、アジアだけではない現代文化の前衛的表象のようにも感じられる。

北極圏にも近く、厳しい自然の中で生きるスエーデンの人々の現代感覚は、どこか重厚な歴史の積み重ねの上にあるヨーロッパ文化とは離れた、野性的感性と宇宙的な視野の中に、現在という時間と人間存在を置く作品を作り出しているように思う。今回の詩集と評論集へコメントも書評も、決まって表紙について褒めていて、中身の方へ行くまでに頼まれた文字数の限界にきてしまったのか、あるいは内容は見ていないのではないかと、ひがみたくなるほどである。

編集者も著者も、本が出る最終段階になると、表紙の話になってくる。帯の文章はたいていの場合編集者に任せられているが、表紙は著者も意見を聞かれて、著者も重要視することが多いだろう。私自身はこれまで、表紙は編集者に任せてきたが、その方が意外性に満ちていて、あらゆる面で楽しみだからである。振り返ってみると、あまり特別な感じが湧かなかった表紙もあるが、それが気にかかったことはなかった。改めて色々な作家の作品の表紙を見ていくと、評論家はそれほどでもないが、作家は表紙に凝っている感じが見えてくる。表紙は作品の一部であったり、補完物であったりするだけでなく、明らかに一つの作品として扱われていることがわかる。

作家は同じ創作者として、表紙のデザイナーに大きな敬意を払い、作品としての重要性を認めているばかりではなく、自分の作品が新たなもう一つの作品へと高められていくことを知っているし、期待しているからであることがわかる。このことはデザインの重要性が明瞭な現在では当たり前であるかもしれないが、しかし、肝心なことは、表紙のおかげで、内容が新たな創作作品に、作品という物体に生まれ変わるからだ。

それでも表紙はなくなることがあり、図書館に入れば、表紙は取り除かれてしまうことも多い。古本屋でも表紙がない本は多い。表紙がない本は、どこか芸術品としての価値に欠けて、そっけないただの実用品のような、使い捨ててもいいようなものの感じさえしてくる。昔本が少なく、本に飢えていた時代には、文房学生たちは、一冊の本を読み終えると、それを売って新たな本を買っていた。彼ら(そして私)にとっては、本は内容で勝負、知識を内包する頭脳の代名詞であり、その物体性など、顧みることも、考えることもなかったのではないだろうか。

と言って、表紙が内容を象徴すると考えられることが少々困る場合がある。デザイナーの理解が違っていたり、著者の個性や趣味と合わなかったりしても、デザインとしては素晴らしいことも多いのだ。私の第一詩集『春の終わりに』は箱付きで、箱と表紙のデザインを画家の義兄に依頼した。できてくると、それは真っ青なだけの地で、そこに大変大きな字でタイトルが書かれているだけだった。少々がっかりして、しかもその超大きなタイトルに恥ずかしくなって、字を小さくしてほしいと頼んだ。しかし、もう40年以上前の詩集を見るたびに、大きなタイトルの字が蘇ってくる。そして、大きなママにすればよかったという思いが、心をかすめるのだ。亡くなった義兄のセンスに驚くというか、それを知らなかった自分は彼の作品をよくわからなかったのかもしれないという思いも、ふとしたりする。

作品は書き終わった時に、作家の手を離れるが、本になった途端に物としての新たな存在性を獲得する。原稿の段階ではまだ作者の手元にあり、捨てたり、書き換えることができるが、本になると現実的に著者の手を離れて、一つの物体になるのだ。

ハート・クレインは作品を白い彫刻といったが、本当に文字の詰まった、そして何よりも著者の心、思考、想像力や、感情などが詰まっているはずの中身は、その生々しさを削られた、冷たい動かぬ物体、どこにでもゴロンと投げ出されたままになる「もの」として、存在する。

最近はデジタルで本を読むことができるが、本は手に持ちたいという欲望に近い気持ちは、本が内容だけで存在するのではなく、物体として存在するからなのだ。言葉に食傷し、言葉の内容を信用しなくなる一方の現在では、本はその物体性の重みで、読者の心への道を開き示しているように思える。デジタル文化が進んでいく将来には、それは本の記憶、深層心理に埋められた感触となってしまうかもしれない。

 

2021.2.5

 

 

 


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