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水田宗子

偶感

人の移動と文化

2021/02/3

2020年、コロナ第一派流行の下、外出禁止―自粛、人との接触の制限、そして海外への人々の渡航が制限されるようになると、これまで論議されていた過剰なグローバリゼーションへの批判が、一気に噴き出した。21世紀に入って、一国主義と独裁的強権主義の台頭が顕在化し、世界を分断していく現象の中でのグローバリゼーション批判という側面があった。

しかし、グローバリゼーションのマイナス面と人の移動とは関係がない。通信・交通テクノロジーの進展以前は、人が移動することを通して、物、カネ、情報が移動し、伝搬した。人の移動が主たる伝搬手段だったのである。ところが、

通信、交通テクノロジーの急速な進展は物、カネ、情報の移動を、実際の人間の移動に頼らなくなくさせたのである。人の移動よりはるかに迅速に、そして大量に、広範囲へ、物、カネ、情報は移動するようになった。人間の身体的な移動は運び屋の役目を放免となった。それは経済や文化を含む文明の変容を目に見える形で進展していることを表しているが、その変容はむしろ、人の身体的移動が追いつかなくなったことからくる変容といってもいいだろう。

実際人は「ステイホーム」と、自分の国だけではなく、自分だけの個人的な場所に閉じめられたが、だからと言って、仕事も、経済も、文化も、それで全部が止まったわけではなかった。むしろ通信テクノロジーのさらなる進展が推奨され、求められ、人の移動に頼らない経済活動の仕組みがポストコロナ、あるいはウイズコロナ下でのイノヴェーションとして推進されていて、IT関係企業は業績を大幅に上げている。

人の移動に頼る領域だけが、経済活動を圧迫している。観光、飲食、娯楽、芸能など文化領域で、そこでは人が主役だからだ。これらの領域は海外からの移動も含めて、人が移動しなくなったことで、経済活動が停滞したのだ。

しかし、実際にウイルスを運ぶのは人だけではなくモノである。人によるウイルスの伝搬は可視的だが、モノを介しての伝搬は間接的で、人の目に触れたり、意識にのぼったりすることが少ない。デリヴァリーの袋や食べ物、缶詰や瓶詰めの容器、郵便物など、全てがウイルス伝搬者である。経済の生産と消費、流通の全てに関わるモノこそが、ウイルス流行の主役であるのだが、それは人の影武者、シテに対すワキのように重要な役割を果たしているのだ。

人の労働力や消費力はコロナ時代の資本主義社会の課題であるが、そこでも知力や感性が不必要になったわけではない。それらが重要だからこそ、を人との直接的接触、人の移動に頼らないで調達する方法を開発しようとするのだ。エッセンシャルワークは人の労力を必要とするが、それはやがて、全てではないが、ロボットが担って行くだろう。AIは人間の知力のレベルまでやすやすと到達するに違いない。教育分野でも、そして、音楽、映画絵画、という芸術領域も、すでにテクノロジーへの依存度は増大している。

人間の身体的移動だけが何者かに取って代わられることのできないものなのだ。そして、人が運び屋としては用無しになっても、確実に人でなければ運べないのが、ウイルスである。人がいなくなればウイルス流行もなくなる。人とコロナは一心同体なのだ。この間命に関しても本音とも思われる「命の格差」を主張する意見を随分聞いた。高齢者の命より若者の命の方が大切であるとか、経済的格差がすなわち命の格差であって当然のような考え方、そして、ある程度ウイルス患者が死ねば、流行が収まると、患者の無治療を是認する意見。そして病気にかかるのも、重症化するのも自己責任である、と高齢者やエッセンシャルワーカー、貧困地帯に住む人々、後進国の人々への差別を正当化する意見、などなど。

ポストコロナ・ウイズコロナは人に頼らない経済活動のあり方、システムを開発しようということなのだ。2020年世界を覆った一国主義と権力集中による独裁的政治の現象は、一見経済のグローバル化を制限することを目的としているかに見えるが、実際にはそうではなく、自国の利益を他国の利益によって剥奪されないための競争原理に基づいている。国内の貧困格差はともかく、国外の格差にも、人権にも、関わらない、というのが、一国主義である。それは経済的格差をなくすのではなく、むしろ増長することによる利益獲得を目的としている。

移動を制限されて最も大きな被害を受けるのは人である。

人々の日常生活は、衣食住、教育に至るまで、意識しない細部まで、 グローバル経済に依存しているのだ。経済のグローバル化にとって、人々の身体的移動は、必要不可欠ではなくなったと言われても、人々は自分自身の生存のために身体的移動を必要としているし、必要とする文明を作ってきたのだからだ。

人はウイルス流行現象において主役なのである。先進国だけではなくどの地域でも、また社会的階層、貧富の差に関係なく、人が他者と接触できない、という生活現象は、最も大きな日常生活上の変化をもたらし、精神的な衝撃、打撃を与えた。それは文化の創造と享受においてであり、その分野は人が主役だからだ。先進国、中でも都会では、仕事をするために交通機関を使い、外食をし、家の外に娯楽を求め、学校に子供を送り出す、という日常生活は、変わらない生活のパターンを作り上げてきたから、家族関係、仕事での関係、老後や病気治療、人生計画のあらゆる面をそこに依存し、高度のサービスが、生活と社会生活の質を決める。教育、芸術、観光、飲食、娯楽、などはすべて人が移動し、接触して、直接的に交換し合うサービスで成り立っている。

サービスが行き届けば行き届くほど、ウイルスは伝搬する。必要なサービスはロボットにさせ、どうしても人の手が必要なエッセンシャル・ワークは、3Kになっていく。もっとも緊密な直接的サービスを前提とする家族関係もまた、ウイルス伝搬の最大の危険区域で、家庭内という場はもはやプライベートな場でも領域でもなく、どこにも行き先のない感染者を、個室に隔離する準公共の場となっている。人とウイルスというよりは、個人とウイルスは一心同体なのだ。

直接的に人が動くことが必要なのは、サービス業に加えて、あるいはそれよりもはるかに深刻に、人の感性、想像力、感情、表現の領域だろう。消費者としての文化受容はスクリーンを通しても可能だろうが、文化の中でも、芸術表現(文学も含めて)は作家という個人の現実との関わりによって触発される。その現実とは過去や記憶を喚起する場所や物、他者との接触によって成り立っている。時間や空間を超えた歴史と個人の記憶の領域を蘇えさせのは、作家の個人の内面との関わりだからだ。

文化は受容する人がいなければ成り立たないが、文化は単なる解毒剤でも、レクリエーションでもなく、個人の表現を原点としている。歴史と個人の深層に、深く溜め込まれた記憶を蘇らせる源泉は現実との関わりによって掘り起こされ、それは未経験、未踏領域、異領域への個人的旅なのであり、その旅は実際の身体的移動によって触発される感性の、そして精神の旅なのである。文化産業によるテクノロジーだけでは、ゲームも含めて、その旅の代替物にはなれない。

人は人生相談で生き方を学ぶわけにはいかない。生き抜いた他者の考えや意見はその場しのぎには役に立つだろうが、生き方は長い時間と経験、思考によって鍛えられた精神なのだから。

ポストコロナ、ウイズコロナ政策はAIがどこまで人の内面へ入り込むかの境界を示すことだろう。脳への侵入は、すでにそれが脳の拡大か侵犯かの境界領域を示しているように思える。人の役割が少なくなるのではなく、人の感性、想像力、思考、表現の重要性が、つまり、人の精神が最も「役に立つ」社会と文化の創生が、環境と生命の生き残りに立ち向かうウイズコロナ文明にとって、最も必要不可欠なことであると思う。

20世紀は恐ろしい世紀でもあったが、人が異国へ、見知らぬ土地へ移動できたことが文化にとって最大の収穫だったと思う。鎖国から脱した日本の作家たちのヨーロッパ、アメリカ、中国、ロシア他への旅が、近代文学を形成する一つの核となっていることを考えても、その足跡を改めて考える時期に来ているように思う。文化は病気もウイルスも内包しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


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