2021/09/30
Yale 大学のSterling LibraryにFilm Archive ができたと聞いて、1960年代初めの留学時代のことが懐かく蘇った。当時Yake Film Societyというのがあって、そこでの毎週末の映画上演で、私は初めて映画を「知った」と言っていいほどの映画開眼をしたのだった。チャプッリンやキートンをはじめとして、サイレント映画、戦争中のハリウッド映画、そして、日本映画もそこで見たのだ。1950年代の、戦後が終わったのか終わらないかわからない日本では、外国映画を見る機会は多くなく、『カサブランカ』や『風と共に去りぬ』、『外人部隊』などを母と一緒に見たくらいであったし、日本映画にしても、溝口健二の映画などもYaleで見たのが初めてだった。50年代は学生たちは歌声喫茶で歌っていた政治の時代だったのだから。厚い蓄積のあるYale 大学のFilm Archive の設立は遅すぎる感じもするが、これからは学生を始め一般の人たちが、これまであまり知られてこなかった作品やドキュメンタリー、歴史解釈の資料となる映像に触れる機会が大きく広がるだろうと期待している。
Yale Film Societyで見た映画の一つに五味川純平の『人間の条件』がある。たまたま最近、山崎豊子の『大地の子』が再放送されて、それを見ながら『人間の条件』のことを思い出していたのだった。大河ドラマ的な扱いが似ていて、改めて、『人間の条件』も『大地の子』も、今若者たちに忘れられた映画であることを考えた。日本と中国の関係も大きく変わってしまったこともあるのだろうが。
三一書房出版の『人間の条件』は大ベストセラー小説で、仲代達矢、新珠三千代主演の映画は、植民地化される満州での住民、開拓団として移住した人たち、そして日本軍と政府の政策や行為に立ち向かう一人の個人の長い物語で、歴史に巻き込まれる個人の、権力との闘争を描く。『大地の子』も過酷な運命に翻弄され尽くしながら、最後まで恩義を忘れず、自分の考える正義に基づいて人間としての心と倫理を守り抜く、一人の残留孤児の物語で、両者とも、熾烈な権力の不正義と欺瞞、暴力の歴史を生き残るための厳しい人生を描く点で共通している。
どちらもドキュメンタリー映画ではなく物語映画である点が、私には今回大変興味深い点でもあった。価値観や正義を普遍化するパラダイムが壊れ、変容し、個人は個人のままにそれぞれがむき出しになり、国家は国家のままに、その利益をあからさまに追求の権力を強めていく、今日の法が正義を意味しない国家と個人の関係から見れば、個人の窮地を救うのが、いつも権力の中の「正しい人」や「優しい人」である物語は、『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』のような物語とあまり変わらないように思えるのは当然のことのように思える。法は国家が変えればいいだけのものになり、他国や他民族の法、そして他者の正義は単に無視すればいいのだと。
ドキュメンタリーもまた、個人の思想と感性のバイアスを大きく受けているジャンルであることは、作者も観客も知っている。その表現者、記録者としての個人の視点こそがドキュメンタリーを成り立たせているのであり、それを見ることが要求されているからである。ドキュメンタリーは、権力の側が主張し、人々にそのように理解させたい現実とその解釈に対する、個人の反抗であるからこそ、ドキュメンタリーが意義を持つことを知っているからだ。しかし、その一方で、歴史の中の出来事やその「真実」、が個人的な表現に委ねられることが課題でもあるのだ。
ハーヴァード大学の美術館が今「Devour the Land」(土地の略奪:戦争とアメリカ風景写真、1970年以後)という写真展を開催している。またHarvard Film Archiveは10月から同じDevour the Landテーマのもとで、フィルム・プログラム「映画、風景、歴史」をシリーズで開催するという。戦争、政治、社会・文化によるアメリカという祖国の大地略奪の歴史を写真と映像で見せる衝撃的なプログラムだと思う。インディアンからの土地の略奪、原爆実験による大地の汚染、空気汚染、山火事、洪水などの大地の異変と汚染が、滝国をだけではなく、祖国の大地を破壊する人為的、文明の略奪であることを知ることが、目指されているのだ。
ドキュメンタリー映画だけではなく、一枚の写真が大地略奪の真相を見せていることも、この展覧会の意味深い点でもあるだろう。昨今では、個人はほとんど誰でも簡単に写真を撮るし、その機会が爆発に増えている。写真はまた、即座に他者に送流ことができる。個人が歴史の資料を集めることに、携帯による写真は大きく貢献しているだろう。
しかしその反面、最近の技術で、写真はいくらでも修正や合成などの編集ができるので、フェイク情報になりやすい。個人的な意図や感情が事実を曲げたり、写真に意図的に誤ったり、偏ったりする解釈を持たせることも可能である。個人の撮った写真への不信感を、昨今では持っていない人はいないと言っても過言ではないくらいだ。映像や写真の技術が発展し、そのアクセスが、限りなく多数の個人に行き渡っていく現在、歴史的資料も、ドキュエンタリーも、写真も、そのインパクトの大きさに比例して、歴史的事実ばかりか真実や真相への距離を広げている。
NHKの「映像の世紀」というプログラムは、個人がカメラへのアクセスを容易に持たず、ましてや小型カメラやスマホ以前の映像が多いことで、なぜか信頼性があると思ってしまう。フェイクの時代、疑いの時代は、言い換えれば、信じるものの確実性、明白性が欠如している時代ということだろう。そのためにフェイクが本当にフェイクであるのかも疑いの対象になっている。
政治権力と利益優先文化によって「我が祖国の大地」が略奪されても、やったほうが勝ちの時代であるのだ。産業廃棄物の他人の土地への遺棄や野生動物の殺戮などは、夜間にコソコソと行う行為であるから、権力による大ぴらで、あからさまな、法や組織を思うままに従わせた略奪に比べると、どこかまだ可愛げを残しているようにさえ感じられてくる。捕まえることができるだけまだいいし、当人が悪いことをしていると自覚しているだけ、ましなのである。
写真や映像が歴史的資料としての信頼性を持っていた時代は、もう過ぎ去ったのだろうか。W.ベンヤミンのいう「複製時代」の課題は、技術の進展だけをとっても、現在は当時の想像をはるかに超えているが、「複製時代」の到来が、今日のフェイク文化の不気味な予兆だったと痛感する。
映像の作成も個人がたやすく手がけることができるYouTube時代に、言葉よりは目と耳を、紙よりはスクリーンを、エンピツ、消しゴムや糊よりはマウスを信じ、頼りにする時代に、映像も、写真も全ては個人的な表現となり、事実ではなくなり、真実の在所はますます見えなくなる。真実の発掘に、脳や心を含む身体の感触や触手に頼れなくなくなっているのだ。人間の感覚よりコンピュータの方が真実に近いと。
ここ掘れワンワンと、庭を掘ってみたら、核廃棄物と、発光したヴィデオと、ハッカー済みのフロッピーが、ザクザク出てきたという昔話を未来の子供達が聞くことがないように、大人も若者も、一つでもできることを、今することが大切だと思う。。