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水田宗子

幕間

祖母と孫娘のフェミニズム(1)

2023/01/31

私が最初に祖母と孫娘のフェミニズムについて考え始めたのは、マヤ・アンジェロウの『歌え飛べない鳥たちよ』(I know Why the Caged Bird Sings 1969)を読んだ時だった。その頃はまでアメリカに住んでいて、女性の自伝についていろいろと調べている時だった。女性の自伝は少なく、自伝といえば社会的に成功した男性が書くものと考えられていた時代で、自伝とはなんとなくいかがわしいという気をいつも持っていたが、女性の自伝について調べ始めると、いろいろな発見があった。

 

まず女性は自伝を書かなかったわけではなく、女性は「自伝的小説」を多く書いてきたということである。そして女性の自伝は、「女になる」というボーボワールのフェミニウムの根幹的なテーマを主題としているものが多いということだ。少年が男になる通過儀礼は、神話、民話、歴史ロマンス、そして教養小説のテーマだが、ほとんどの民族、文化集団は制度としても、たとえ儀礼化していたとしても、通過儀礼の伝統を持ち、維持してきていたのだ。しかし、少女が女になる通過儀礼は、少数の例を除いてはそれほど明確に制度化されていないように見えながら、男性のそれよりははるかに厳しい倫理的、道徳的規範が課せられてきたこともよくわかるのである。それが精神的。内面的に女性の自己意識の醸成に複雑な屈折を持つ道筋を描いてきたのである。

 

 マヤ・アンジェロウとリリアン・ヘルマンの自伝(An Unfinished Woman1969)が、私が最も深い感銘を受けた自伝だった。主人公の少女の成長、つまり女性として、個人としての自己意識の形成過程には、必ず代理母が存在することが、その時分かったことの一つだった。

リリアン・ヘルマンの場合は、黒人の乳母だが、マヤ・アンジェロウにとっては祖母だった。

近代文学では、娘は母に抵抗し、また反面教師として反抗、無視、離反をしながら女性に成長していくことが顕著である。これは、日本文学にも、西欧文学にも共通する。マヤ・アンジェロウは祖母に育てられるが、それは、母が娘を預けて働いているからであり、社会からも、夫からも受ける黒人であることの人種差別と、女性であることの差別を、生き残るための闘争をしているからだ。その闘争は、生活費を稼ぐために働くということだけではなく、犠牲者として自分を潰されないための、あがきでもある。家族や、娘のことを顧みる余裕はない。なんとか成功して、金持ちになって社会を見返してやることだけが、母親世代を駆り立てる。

 

近代女性である母は、心のうちに自由への願望を持ちながらも、娘には結婚をして、母、妻として家父長制家族の中で安定した居場所を持たせたいと、ジェンダー制度の性規範を叩き込もうとする。また戦後日本の女性は、自らキャリアーウーマンを目指して働き、性的差別が生み出す格差に苦しんでいるために、娘にはより良い教育を授け、競争社会で成功する力を持たせたいと娘を競争に駆り立てる。その上、社会的成功とは、エリート男性と結婚して、社会の上層階級に居場所を得ることだとも思っている。それこそが成功の理想型なのだと。

 

娘は家庭か仕事かの二者択一ではなく、またキャリアーウーマンとしての単身での成功だけではなく、キャリアーも家庭もの二重の競争に勝つ力を持つように、母から期待され、教育される。それは母親自身の願望であるのだ。

 

しかし祖母はそうではない。差別の制度が人の心を縛り、傷つけてきた社会と文化の中で、生き残ってきた、いわば生活者としての生き残りの実践者として強者である。祖母のおおらかさ、少女の自由を縛ろうとせず、少女に競争力を持たせようと焦らず、性的規範も押し付けようとせず、どのように生きろと教えるわけでもないが、いつも明るく、自分自身のやり方で日常生活を生き続ける祖母の、頼りになるおおらかさに、安心を覚え、何かに追い立てられずに自分でいることができる心の余裕を得て育っていく。

 

それは過保護でも、放っておかれるのでもない、自分で感じ、考えることを必然とする、安心できる環境の条件なのである。本来的にはそれが家族という環境なのだが、父や母は、まず自分のことに精一杯で、また娘を社会人にする責任とは、娘に社会的制度の中での成功者になることだと信じているのだ。

 

祖母と暮らして、祖母の話を聞く、という素晴らしい経験、物語の楽しさを孫娘は知る。母である娘は自分のことで精一杯で、祖母の話などを聞く余裕も、その気もなかったので、家族の経験の話は、孫たちには伝わらないのである。語る人はいても、聞く人がいない。その物語の宝庫は、蓋を開けられずに放置されたままなのだ。

 

日本文学で、祖母と孫娘を基軸にした小説の中でも、私が一番好きなのは尾崎翠の『第七官界彷徨』である。尾崎翠自身、作家、詩人であることを強制的に辞めさせられて、姪や甥たちの代理母としてその長い「晩年」を送ったことを考えるとなんとも感慨深い。彼女は文壇や作家、友人たちから全く忘れられて長い人生を生活者として生きたのである。

 

最近祖母と孫娘を扱った映画を二つ、全く偶然にテレビで見た。

 

一つは『椿の庭』、そしてもう一つは『西の魔女が死んだ』という映画だ。共に美しい映像で魅了されるが、祖母と孫娘のテーマの他に、共通する異世界、異文化、異邦人というテーマが見えることも興味深く思った。『椿の庭』では、韓国人と「駆け落ち」して家を出た娘の子、という話の設定、そして『西の魔女が死んだ』は、森の中に住む「魔女」と呼ばれている祖母が、日本人の化石学者と結婚して日本に住み続けたアメリカ人の女性である。世俗世間、そして社会制度の規範の「外」を生きる「はぐれもの」というテーマが、はっきりと見えるのである。映画作品については次回に批評したいと思う。(続く)

 

( iiMWSニュースレター69号掲載 2023.1)


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