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水田宗子

幕間

生と死、身体 、痛み

2018/06/7

 伊藤比呂美さんは生活の本拠がまだアメリカで、サンディエゴー熊本ー東京間の移動が続く生活だった。その上にノールウエーを始め多くの外国へ出かけるので、連絡するときは地球のどこにいるのかを知るのが楽しみだった。その伊藤さんが、東京での講演を引き受けてくださり、予想以上の自由で楽しい講演会、ならぬ、対談相手の私も早くから参加した、自由トークとなった。伊藤節満開の、そして女性にとっては重要な課題に直球で抗戦する伊藤さん特有の語り口と思想に満ちた講演、対談となった。私にとっては長年手がけてきたテーマを語り合う良き機会となり、反論もでて、さらに考える契機をいただいた。
講演の中心テーマは「身体」で、閉経後の女性が、社会からどのように見られ、扱われるか、と同時に、自分自身が、体の変化に、あるいは変化の予想に、どのように対処していいのか、迷い、悩みながら老年期へと進んでいくことを指摘し、自身の経験を交えて、内面化される女性としての苦悩や苦痛、自信喪失から解放されるには、自分自身が身体の変化に心も頭脳も伴走していくためのユーモアの感覚と現実凝視の視点が必要だと述べる。それは臆せぬ敗北感や自嘲的な笑いに満ちていて、女性自身が自分の現実に怖じずに向かい合うことの勇気を与えてくれるだけでなく、実に楽しく聞くことのできる講演だった。閉経期なんか怖くない、である。
 しかし「平家物語」をもじった書名の「閉経期物語」というエッセイ集の底を流れるのは、平家物語と同じく失われたものを悼む愛惜の気持ちであり、いずれは滅びていく我が肉体への愛おしみである。伊藤さんは生と死の間にある痛み、死後の生き物の姿、短時間だけ生きていた時の姿を留める遺骸に、そしてそれが消えた後の地面の窪みなどの印に、凝視の視線を注ぐ詩人だ。やがて生き物である人間も遺体という、身体とものの間に置かれ、その短い時を居場所とする運命にあることを告げているように思う。伊藤さんが最近は野生の残る草場でコヨーテに食べ残された生き物の残骸、それが地面に残した穴などを見て回っているのも、生き物の「生きる」と「終わる」の究極の姿とその痕跡を見るためなのではないだろうか。生と死の間を占める究極の痛みについては『切腹考』へ議論を向けたが、ここでは二人の意見が噛み合わないところがあって、私には大きな刺激となった。私は切腹は武士社会という閉塞した、規律だけが建前として優先されるホモソーシャルな権力社会での、権利者による究極のいじめであると考えるのだが、それに関しては伊藤さんは違った視点から切腹に興味を抱いていることがわかる。森鴎外好きの伊藤さんは、切腹を鴎外世界の中でのその意味付けをきちんと分析して理解したいという批評家の意思を持っているのだ。生と死の痛みは血と切り離せない。血の流れが多いほど、そして毒々しく新鮮であればそれだけ、生と死の「苦痛」と「快楽」が味わえる。処刑の場には見物者が集まるのだ。これは古くて新しいゴシック想像力の中心にある「苦痛の快楽」、「罪と快楽」思考だ。女性は自分の血を見ることには慣れているから、罪も快楽も感じない。切腹は男性にだけ通用するいじめなのだ。武士としての名誉を保つということは武士としては逃げられない状況と大義名分を与えられてしまうことで、その結果がお家断絶や家族、親族、家之子郎党が露頭に迷うことには変わりがないとしても、それ
を受ける以外にない選択なのだ。しかも名誉のために究極の身体的痛みを自ら課さねばならないのだ。その恐怖を克服することで切腹による死に至る道は、拷問や踏み絵、脅迫と同じ性格のものであることには違いない。それは権力者の、そしてそれに依拠して自分の
権力を示そうとする権力願望者の、さらには生き残りを目指す臆病者の、常套手段であることは、世界史を見れば、20世紀史一つを取って見ても、明らかであるだろう。
 心や精神の痛みは身体の痛みと明確に区別することはできない。それが恐怖をもたらし、自然な感情を抑圧し、他者への関心も思いやりも枯渇させ、人間性を破壊し、生きる意思を失わせることは、今、現代社会でも満溢している権力の姿とその被害者の姿ではないだろうか。
 

研究所活動報告:講演会
伊藤比呂美の人生相談
対談:水田宗子
(2017年9月)


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