ページトップ

水田宗子

幕間

イギリス 再訪(1)

2019/07/28

オックスフォード大学での講演とシンポジュームの後にロンドンに 2泊する短いイギリス再訪の旅をした。イギリスは1966年から67年に滞在して以来50数年ぶりである。ロンドンには子供達が住んでいたこともあり、来る機会は多くあったのだが、こんなに長い間来なかったのは他の国へ仕事で訪問することが多かったからだった。

この間の大きなイギリスの変貌にきっと驚くだろうと皆に言われて来たのでが、実のところ、全く驚かなかったのは、 多くの人種、民族の異なる人々で街が賑わう風景にはすっかり見慣れていたからだろう。それに加えて、1967年のイギリスのことを忘れてしまっているからかもしれない。

実際ニューヨークもパリも、ましてやロスも白人の住む西洋の街という印象をなくして久しいのである。昨年の夏アメリカのメイン州へ行った時に、白人ばかりの風景に驚いた経験の方が、異常な風景を見たというその思いの方が、はるかに強い印象を残している。確かにロンドンの街を行き来する人たちは背丈高い人ばかりとも限らず、肌の色もまちまちであり、ファッションはといえばほとんどがグローバルな制服のジーンズと運動靴だ。スカーフを頭に巻いていてもそのような服装の人が多いのだから、見慣れている都市風景で、別に驚くには当たらない。テームズ川のほとりの発電所を美術館に変えたテートモダンのすぐ近くに、1990年代に建てられたシェークスピアのグローブ劇場が真新しい綺麗な姿で立っているのも、新旧の建物が隣り合わせのニューヨークと少しも変わらない雰囲気だし、中国語が飛び交う観光都市風景は東京でもすっかり馴染みになっている。

それでも変わってしまってがっかりした場所と、変わらないまままで胸を打たれた場所があった。変わってしまってがっかりしたのは大英博物館だった。1967年、私はイエール大学院での勉強を終えて、博士論文を書くために、2歳の長男を連れて家族3人でロンドンに滞在した。その頃イギリスの経済がよくなくて、新しい建物はほとんどなく、アパート探しで苦労したのだが、やっと都心を離れたハマースミスに落ち着いて、そこから夫と一日交代代で、大英博物館内の図書館に通ったのだった。 有名なエジプトやメソポタミアの古代遺跡をそのまま移した、博物館にも圧倒されたが、何よりも大きなドームの下に広がる広大な図書館は帝国時代の雰囲気をそのまま残していて、文化遺産としての本、学問の蓄積の厚さに、権力と財力の物凄さを見せつけられる思いで圧倒された。マルクスもここで研究したのだと思って感激もしたが、エドガー・アラン・ポオで博士論文を書いた私は、ポオに影響を受けたことで知られているロゼッテイの書き込みがあるという『グロテスクとアラベスク物語』の初版本をこともなげに、ごく普通に貸し出してくれることにすっかり感動したのであった。当時アメリカには初版本はなかったのである。透き通る大理石でできたイエールの貴重本図書館は私が大学院生だったころはまだ建つていなかったが、ロゼッティの書き込みがある初版本ならば、厳重な管理のもとで滅多に貸し出してなどしてくれないに違いない。イギリスの大げさなところのなさに私は文化の厚みを感じたように思ったのだった。

その図書館は博物館から独立して別の場所に移され、そのドームの下は広い部屋の中を円形に仕切られて、かっこいいカフェになり変わっていた。なんとも幻滅して、心からがっかりしてしまった。コーヒーも高かったが、世界中に見られる今風のカフェはかっこ悪くさえ思えたのだった。当時は若い所為もあって、初めて見るミイラやスフィンクスに肝をつぶしたのだが、今回はよくここまで持ってこられたものだと感心したり、これは外国から返せと言われるだろうなと感じ入ったりする方が強くて、あまり長居をすることなく退散したのである。

変わらないただ住まいで感動したのはシルヴィア・プラスの亡なった家のあるあたりだった。1966年アパート探しで何週間もロンドンのあちこちを歩いて回っていたころ、偶然に、イエーツの住んでいた家だという理由で、プラスが そこを借りたという家を訪ねたのだった。プラスは夫のテッド・ヒューズと別れて、二人の幼い子供たちを連れてロンドンに出てきてそこに住み、そこで自殺を遂げたのだった。広く緑に溢れたリージェントパークの前にある質素で静かな住宅街で、人っ子一人いない  昼下がりの、イギリス特有のタウンハウスのような家が立ち並ぶ通りに立つと、や はりかのイエーツの住んだところというよりは、シルヴィア・プラスが人生の最後の時間を過ごした 場所にいることに胸が締め付けられることに変わりはなかった。家の入り口にはイエーツが住んだという青い説明板はあるが、プラスのことは何も書いてなかった。その家の地下室が、当時貸しに出されていたのだった。

通路から地下を除いて見ると、誰かが住んでいるらしいことは明らかだった。キッチンらしく、きちんと整っていて、ダイニングテーブルと椅子がいくつかあった。どんな人が住んでいるのか、もちろんプラスのことをよく知って住んでいるのだろうと、胸が痛くなった。 私がロンドン滞在を終えて日本に一時帰り、最初に手がけたのがプラスの詩の翻訳だった。ロンドンに来た甲斐があったと、急に緊張がほくれて身体から力が抜ける思いがした。

プラスといえば、 旧友の風呂本惇子さん一家とロンドンでお会いすることができた。風呂本さんはプラスの分厚い伝記を翻訳した方である。その伝記はプラスに対する見方をかなり大きく修正したことでも有名 で、それまではかなり一方的に評判の悪かった夫のヒューズの側からもプラスについて見る視点を提供している。

風呂本さんとは不思議と縁が深く、戦争中の疎開先の小学校でやはり疎開してきた彼女と偶然一緒だったのが、大学に入って再会し、大学院もまた一緒になった。

娘の佳苗さんはロンドンと日本を拠点に、 世界を舞台として独特な音楽世界を展開しているピアニストで、アイルランド学者を父に持つ。私は彼女の音楽センスと文学的とも言える抒情の世界が融合した独特な美の世界が好きで、いつもその演奏に心酔する。ある時、舞台の上で演奏している彼女が一瞬母である友人の面影を濃く 写していることに深く胸を突かれた。それはあまりにも突然の啓示のような強さで胸を打ったので、演奏が終わった時には涙が流れ出ていたのである。

ロンドンではSOASで日本文学を教えている研究者たちとおしゃべりもできたし、ウルフのブルームスベリー通りの近くのホテルにも泊まってそこいらを歩くこともできた。オックスフォードでは私の仕事についての学会を催してくれたのでなんとなく気恥ずかしい思いのする滞在だったが、ロンドンは グローバルな現代都市の雰囲気に違和感なく50数年の時間を飛び越えることができた経験となった。

 


SNSアカウント