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水田宗子

幕間

【連載エッセイ】アメリカ 再訪 2018 ③

2018/10/18

 「父」に代わって「夫」の持つ力の増大は、アメリカ社会と文化の中心に結婚願望と家庭中心主義を定着させたが、それは広い台所と庭のある郊外の家とショッピングモールの大規模な開発を促し、都市と田園ではなく、都市と郊外という生活圏(生活文化)の分離を生み出した。 家庭中心主義は女性(妻)だけではなく男性(夫)も結婚 制度に封じ込めたので、性的関係におけるダブルスタンダードや権力、金、性が結びつく現在のジェンダー構造を形成していく。

 私が初めてアメリカに来た1961年はマッカーシズムの赤狩りがおさまったとはいえその後遺症としての反共産主義、左翼知識人への差別文化がすっかり定着していた。冷戦体制時代が進行し、「キューバ危機」やケネディ暗殺が迫っていた。文化の中心がボストンからニューヨークへ移っていく19世紀後半から、第一次世界大戦、世界恐慌、第二次世界大戦 をへて、アメリカは世界の政治経済をリードする世界一の大国であり、物質文明と都市文明の最盛期だった。そのような中でもボストンは経済が活性化することもなく、すでに過去の文化伝統の街で、田舎扱いをされていた。それでもボストンはシルヴィア・プラスとアン・セックストンの街。1962年留学一年後に運転免許証を取ったそのあくる日に、私は日本から訪ねて来た友人尾本圭子さんを乗せてニューヘイブンからボストンへ、マサチューセット・ターンパイクを運転していったのである。知らぬが仏のその友人にとっても肝を冷やす経験だったことは、今でも彼女に私の運転のまずさをからかわれるからである。何しろボストンは運転する人たちがルールを守らないので有名だったそうで、新米もいいところの私は幾度怒鳴られたり、立ち往生してしまったりしたことだろうか。

 ボストンは1990年代になって新しいテクノロジーの開発ともに医療、薬学関係の企業が集中する都市となり、MITやハーヴァード大学との産学協同開発が進み、ケンブリッジやベルモントやコンコードなどの街は金持ちの住む郊外になっていったのだという。ケンブリッジも若い大学教授や職員たちが住むには家が高すぎて手のとどかない場所になってしまっているのかもしれない。ボストンの郊外、そしてニューイングランドに来ると、いわゆるコロニアルスタイルと私が勝手に総称するスタイルの家で統一されているような印象を受ける。よく見ればそれぞれ時代に沿ってスタイルの様式が専門的な名前を持っていることは知っているが、カリフォルニアから来ると、この二階や三階建、屋根裏部屋があり、地下室のある、裏庭の広い木造の家は皆同じ雰囲気を持っている。私もニューヨーク郊外のチャパクアでそのような家に住んだことがあり、りんご園をいくつかに分けて家にしたその一つだったが、庭の大きなりんごの木が広い裏庭の特徴を作っていた。そのような感じはここではどこでも全く普通の家の風景のような気がする。

 しかし、小さい外見のコロニアルスタイルの家は、実は中は大変広いことに今回は改めて驚いた。日本の田舎の民家のように、風通しが良く、台所、食堂、客間、書斎まで、繋がっていて、部屋も広いのである。客人や友人が常に往来していたこと、食事や家事や庭などを、たとえ手伝いがいても、基本的に自分たちで行なっていたことなどが、その理由なのだと思う。奴隷制度や階級制度が確立していない時代のニューイングランドの暮らしがうかがえるのである。

 大学に近いケンブリッジの地域は家々の敷地が狭くたて込んでいるように見えるが、昔ながらの大きな敷地の豪邸—マンションーの残るストリートは 、今ではその資産価値に圧倒される財産として存在している。何度も改装をされ、近代的設備を備えているに違いないそれらの家は、ボストンの新たなIT医療企業の盛況とともにそこで営まれる生活様式も伝統的なイングランドのそれとは全く別に違いない。富が可能にする建物の構造様式、外見、街並みの保存に、改めて文化遺産とは何かを考えさせられた。今回のニューイングランド再訪は、ヨーロッパで感じた古いものの観光資源としての活用よりもさらに、日本人の個人的な新しい物好きと、町並みの保存をはじめとする古い生活様式の保存、維持、そしてその活用について自分自身の生活スタイルも含めて考えさせられたのである。

 ケンブリッジから離れてメイン州の島に数日滞在した。メイン州はメルヴィルに関係はないようだが、ここには捕鯨船の港としての伝統が残っていて、その古い写真や絵画の多く残る港町全体の雰囲気に、どうしてもメルヴィルのことを考えてしまう。メルヴィル、「白鯨」といえば何と言ってもナンタケットだが、ボストンの北のヴァーモントやニューハンプシャーには太西洋に面している港町がほとんどないことから、ロブスター、クジラ、ウミガメ、カニ、などをはじめとする漁業で成り立って来た州である。しかし、今では 夏の別荘地、観光地として賑わっても、寒さの厳しさのために冬は州外や国外からの人々の往来が少なく、地域文化があまりアメリカでも知られることの少ないニューイングランド最北の州である。深い森林で覆われ、農業はブルベリーがすぐに頭に浮かぶ特産品である。

 メイン州には1964年に滞在したことがある、漁港の比較的小さなホテルで、夏を過ごし、毎朝港へ出かけては漁から帰って来る漁船と獲物を眺めた。長男を産んだばかりだったし、陸のアメリカとは違う海のフロンティアを持つアメリカの文化に直接触れる思いがしたことが鮮やかな印象となって残っている。 ところが今回の訪問ではコンコードで感じたのと同じように、アメリカの富の蓄積が、メインの手つかずの自然を保存し維持して来たことに感心させられたのである。「砂漠島」国立公園はロックフェラーをはじめとする大富豪たちやハーバード大学の学長などの裕福な知識階級人たちの別荘地だったのが、彼らの自然保護への熱意で広大な森林を購入し国に寄付されて、商業的な開発を免れて来たのである。船から島を見る観光船に乗ると、これらの富豪たちの家いえが紹介され、その今日では巨額な資産価値が紹介される。アメリカの金とヨーロッパの文化の対立をドラマにしたヘンリー・ジェームスはアメリカの金持ちはどう生きれば良いのか、何をすべきかという基本的な問いをアメリカ社会・文化上げかけ、その根底にその問いを置いた。その答えの一つが、美術館と自然保護だったことがわかる。

 ロックフェラー家やフォード家などが孫やひ孫の代までその文化購買と自然保護の遺産を引き継いている一方で、ソロー、メルヴィル、ホットマンと独身の作家たちが目立ってくるのも特記すべきことであるように思える。結婚願望と家庭崇拝主義に支えられた民主主義と大富豪、大資産家族の形成がアメリカン・ドリームを作っていったとすれば、その反面で自由な個人でいることへ願望も同じ強度でアメリカ文化の底流を形成していったのだと思う。独身の女性たちの活動も、女性の権利と平等運動の高まりの中で目立って来て、ボストンマリッジとも呼ばれる女性同士の緊密な生活が、結婚に変わる関係の形として注目を浴びるようになっていったのである。

 

~つづく

 

 

国際メディア・女性文化研究所「ニュースレター」より

 


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